絶滅の危機に瀕する「マドロス歌謡」 孤高のシンガーが歌い継ぐ「別れの美学」

いまでは珍しい「マドロス歌謡」を歌う「傷心の松」さん

絶滅危惧種音楽「マドロス歌謡」を歌い継ぐ謎のシンガー

昭和から平成へ。平成から新年号へ。時代の移り変わりとともに、姿を消そうとする音楽ジャンルがあります。それが「マドロス歌謡」。

「マドロス」とはオランダ語で“船員”を意味し、「マドロス歌謡」とは、海や波止場、港町を舞台にした歌謡曲のこと。岡晴夫の「憧れのハワイ航路」や津村謙の「上海帰りのリル」など、ポップスからブルース、演歌までバラエティに富み、その世界は海のごとく広くて深い。そんな海洋浪漫にあふれた「マドロス歌謡」は昭和30年代~40年代に量産され、おおいに流行りました。

しかし現在、マドロス歌謡は絶滅危惧種。船旅は「クルーズ」と名を変え、「連絡船」「花売り娘」といったマドロス歌謡につきものの単語がJ-POPの歌詞に躍ることは、まずありません。「陸(おか)に立ち、想い人を待つ」という設定自体が、いまや理解されがたいでしょう。

そんなレッドデータ音楽であるマドロス歌謡を歌い継いでいるアーティストが、大阪の堺市に住む「傷心の松」さん(34歳)。三十代でマドロス歌謡を自作して継承しているのは、彼ただひとりとみられます。いったいなぜ? 今回は、失われゆくマドロス歌謡を次世代へ橋渡しする孤高のシンガーにハーバーライトをあててみます。

ライブハウスで若き観客をも魅了する自作の「マドロス歌謡」

傷心の松さんは、真珠湾攻撃の時代につくられたレトロなギター「ニューヨーク・エピフォン」を抱え、マドロスハットを小粋にかぶり、ライブハウスでマドロス歌謡を歌い続けています。日頃は運送業に従事しながら、まだ二十代だった2011年、ソロシンガーとして活動を始めました。これまでおよそ300回ものステージに立っています。

ロックのライブハウスでマドロス歌謡を披露する傷心の松さん

「花は散れども、想いは散らず。時代錯誤のマドロスさんを、今日もカモメが笑ってら。恋に破れた哀れな松は、ギター1本、歌声ひとつで今夜も恋の歌を楽しく唄わせていただきます」

傷心の松さんが歌う場所は、ほとんどがライブハウス。ロックバンドとともにブッキングされます。オリジナル曲「愛し波止場」「恋愛航路」などを披露すると、時代は一気に逆行。昭和の原体験がない若い観客は、はじめは「ぽかーん」。しかし、しだいに潮風が香るマドロス歌謡の波に引き込まれてゆくのです。

歌うのは主に、海の男と女のラブソング。旅路には恋がつきもの

音楽との出会いはビートルズ。「乱暴なロックンロールバンドをやっていました」

――傷心の松さんが音楽に関心をいだいたきっかけは、なんだったのでしょう。

傷心の松(以下 松):ビートルズです。幼い頃からカーステレオなどで、パパが好きなアリス、かぐや姫などをよく聴いていました。パパの影響で自分もラジオ番組から流れるヒット曲などをカセットテープに録音するようになり、そうするうちにラジオからビートルズが聴こえてきて、好きになりました。

――はじめはビートルズだったのですか。それは意外です。マドロス歌謡ではなかったのですね。

松:そうですね。ビートルズに憧れて、「マッチ&ザ・エリートコース」「マーメイドボーイズ」というへたくそなロックバンドを組みました。バンマス(バンドのリーダー)をやり、ギター・ボーカルをつとめていました。

――それは、どんなバンドだったのですか。

松:乱暴なロックンロールバンドでした。革ジャンを着て、サングラスをかけ、リーゼントにして、高いところから飛び降りたり、対バン(共演しているバンド)の悪口をステージで言いまくって、演奏が終わったら逃げ帰ったり。そんなことを12、13年やっていましたね。

――いまのステージとは雰囲気がずいぶん違いますね。ソロになったきっかけは、なんだったのですか?

松:はじめからソロでやりたかったわけではないんです。メンバーから「これ以上、お前とやっていても、売れる気がせえへん」と言われ(苦笑)、ひとり減り、ふたり減り……。遂に、ひとりぼっちになってしまいました。正直「これは参ったな」と途方に暮れていたんです。そんなときにライブハウスのブッキングマネージャーから「弾き語りでもいいから出演してくれないか」という依頼があり、それがはじまりでした。

居住地である大阪の堺市は海沿いの街。海岸で曲をつくることも

――バンドメンバーの脱退が、ひとり歌謡ショーにつながるんですね。思いもよらぬ航路ですね。

松:そうなんです。バンド時代の曲をひとりで歌うのは悔しいし、やるなら新しいことがしたかった。自分自身を変えるいい機会だと考え、高いギターを買い、ラメが入ったスーツの上下を揃え、マドロス歌謡につきものの帽子を用意し、メイクもしました。いい歳をした男が普段着そのまんまの汚い格好で歌っていても、「誰が興味あんねん」と思って。

しっかりとメイクをする。「できるだけ見た目をきれいにするのがお客様への礼儀」だという

美空ひばりを聴きなおし、マドロス歌謡に一気に惹きこまれた

――あの派手な衣装やメイクは、過去の自分との決別を意味していたのですか。では、マドロス歌謡を自分で作って歌おうと思われたのは、なぜですか?

松:美空ひばりさんの影響です。バンドをやっている日々のなかで「ビートルズのように永く聴き継がれる大きな存在って、ほかにいないのかな」と考えたとき、美空ひばりさんを思いだしたんです。平成元年にお亡くなりになり、まるで国葬であるかのように一日中、ひばりさんの歌がテレビやラジオから流れていました。芸能界に興味がないうちの母親までが泣いている姿を見て、子ども心に「この人は偉大なんや。不死鳥なんや」というのはわかっていたんです。

――実際に美空ひばりさんの曲を聴いて、どのように思われましたか?

松:大人になって改めて曲を聴いてみたら、本当によくって。特に『ひばりのマドロスさん』『港町十三番地』など、たくさんリリースされていたマドロス歌謡には、しびれました。それはもう、十年以上やっていたロックの足を洗うほどの衝撃でしたね。

――「ロックの足を洗うほどの衝撃」とは、すごいですね。

松:そうなんです。「なんてセンチメンタルでロマンチックな音楽なんやろう」と思って、夢中になりました。音楽だけではなく、子役で出演していらしたマドロス歌謡映画『憧れのハワイ航路』のVHSビデオを手に入れるなど、どんどんハマっていったんです。さらに、美空ひばりさんを聴くうちに古い邦画や浪曲、OSK日本歌劇団や大衆演劇など日本の芸能全般を見直すようになりました。そうしてソロになったとき「好きな要素をぜんぶ採り入れてやろう」と思い、歌も語りも任侠的な芝居もある、いまのスタイルになったんです。

――マドロス歌謡によって自分の世界が広がったのですね。では、そこまでマドロス歌謡に惹かれる魅力とは、なんでしょうか。

松:「別れの美学」ですね。「傷心の松」という名前にもつながっているんですが、マドロス歌謡って、恋がうまいこといかへん曲が多いんです。「次にいつ帰ってこれるか、わからない。あの人は待っていてくれるかどうかも、わからない」。そういう、いつまで経っても幸せになられへん人々の姿を描いている。人間って、そんなもんじゃないですか。僕はロックをやっていた時代からずっと「一所懸命やってるのに、うまくいかない人生のナンセンスさ」を歌いたいと思ってやってきました。うまくいかない人の、はかない姿が、僕には愛おしい。自分が追うテーマとマドロス歌謡の世界が、うまいこと合うたんです。

――マドロス歌謡は、人生のうまくいかなさを慈しむご自身の世界観を映しだしていたのですね。ところで傷心の松さんは、実際にマドロス歌謡にある「港の恋」のような体験をされたことがあるのでしょうか。

松:いやあ、実は僕、船に乗れないんです。船酔いしちゃって(笑)。

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