「変わらない何か」描き残す 若手画家、ニューヨークで勝負

ニューヨークを拠点に活動する画家の倉田裕也さん(撮影・富谷瑠美)

米ニューヨーク市のブルックリンは、多くのアーティストが集まる街。かつては工業地帯でしたが、今やこの街のサンセットパーク地区が「世界で最もクールな街」に選ばれるなど、世界中から注目を集めています。

そんなブルックリンに住む日本人画家、倉田裕也(くらた・ひろや)さん(38)の作品がいま、海外で注目を集め始めています。倉田さんの作品は、Vice Magazineなどアメリカや香港、ヨーロッパなどのカルチャー雑誌で取り上げられたほか、ブルックリンの有名デザイナーズホテル「ワイスホテル」にも飾られています。

画家になる前は、ファッションやアートの世界で著名な米パーソンズ・デザインスクール(美術大学)のイラスト学科を卒業。華々しい経歴かと思いきや「グレるにグレ切れず、中途半端に生きていた」という倉田さん。彼を変えたアートという存在と画家という職業、そしてニューヨークで描きつづける理由について、話を聞きました。

自分を変えた美大の「ゲリラ卒展」

倉田さんは1980年、大阪府生まれ。父の転勤に伴い、小学校のときにアメリカへ移住しました。一度帰国したものの、高校から米マサチューセッツ州のNMHというプレップスクールに通うなど、人生の半分を海外で過ごしています。

――全寮制の高校から、ニューヨークの名門パーソンズへ進学されていますね。さぞやセレブな生活と思いきや、高校時代からグレていたとか――。

倉田:親が敷いたレールから外れたいと思っていました。父はコツコツ勉強してノースウェスタン大のMBAを取って、外資系製薬企業の役員にまでなった人。僕にもビジネスの道に進んでほしかったみたいでした。だけど、僕は当時流行っていた音楽やストリートカルチャーにはまって、高校時代から授業にもろくに出ず、しまいには高校卒業の数ヶ月前に退学になったりもしました。かと言って、まだ親のスネをおもいっきりかじっていたので、グレるにもグレきれず……矛盾の中で毎日をヘラヘラと過ごしていたと思います。

――著名なデザイナーやアーティストを多数輩出しているパーソンズに入ってからは、やる気を出したのでしょうか。

倉田:全然でした。ここでも怠け癖。パーソンズは出席日数について非常に厳しいのですが、深夜まで遊んで寝坊ばかりしていたんですよ。そうしたら、あるとき教授から「もうお前、卒展(卒業展示)出してやらない」と言われて。

――そうなると、卒業自体できないのでは?

倉田:そうなんです、今思えばただの卒展にすぎないんですが、当時は結構ショックでした。色々考えた結果、今はイラストレーションで活躍されている、遠山晃司さんと2人で「ゲリラ卒展」をやってしまうことにしました。

U-HAUL(ユーホール)というレンタルトラックの会社でいいサイズのトラックを借り、卒展の目の前に駐車してゲリラ展示スペースにしたんです。ジェネレーター(発電機)も借りて電気を引いて。これが大ウケして、本展より人が入り「スゴイ」と絶賛されたんです。「ああ、アイデア一つで、形勢逆転できるんだ。アートって、なんだかおいしいぞ」って思いました。

卒業展示の準備の様子(写真提供:Hiroya.Kurata)

この卒展をきっかけに、現代アートに人脈の広い教授が声をかけてくれて、彼が主催するグループ展に出してもらえたんです。当時憧れていた作家も多く出展していたのでドキドキしました。彼がそうやって僕を誘ってくれなかったら、今は全く違うことをやっていたと思います。

子供には「自分の絵を見せたくない」

現在の倉田さんの作品は、全て油絵。野球をテーマにした、どこか懐かしい作風が特徴です。しかし、ほんの数年前までの作風は全く異なるものでした。

どこか懐かしさを感じさせる作風(撮影・Hiroya.Kurata)

――作風が大きく変わったのは、お子さんが生まれたことがきっかけだったそうですね。

倉田:結婚して、子供が産まれたときに「自分の絵を家に飾りたくない」と思ってしまったんですよ。「これを見せて育てたいかな」と思ったら「違うな」って。自分でも結構ショックでした。

美術系雑誌に掲載された以前の作風の絵(撮影・富谷瑠美)
かつての作品には幾何学模様が多い(撮影・Hiroya.Kurata)

――何が「違った」のだと思いますか。

倉田:「Over exaggerate(誇張しすぎ)」だった、ということだと思います。それまでは目立ちたい一心で、気持ち悪い絵やバイオレント(暴力的)な絵を描く習性がありましたが、本心とのギャップを埋められず悩んでいました。「それなら、もっと素直な絵を描けばいいんだ」と思うようになりました。

ドローイングやスケッチでは良い感じなのに、キャンバスに色を使って描くとどうしても硬くなってしまい、表現が上手く伝わらないことについても常に悩んでいました。でも、絵画修復士の仕事を兼業でやるようになってから、オイル(油絵)特有の質感がわかって、そちらに変えました。ブラッシュストロークというか、筆の感じが出て、僕には相性のよい画材だと気付きました。

現在は油絵一本に(撮影・富谷瑠美)

画家一本で食べていくのは簡単ではない

――途中から始めたという「絵画修復士」の仕事について、もう少し詳しく教えてください。

倉田:生活費の高いニューヨークで、画家一本で生計を立てていくのは簡単ではありません。パーソンズを卒業後、数年は怖いもの知らずで、やたらめったらギャラリーに自分の作品を送りつけたりと無謀なことをしていましたね。

当然のことながら、画家だけで生活していくのは難しく、2007年ごろに友人の紹介で絵画修復士の仕事をするようになりました。現在もチェルシー(マンハッタン)にある絵画修復アトリエで週4回働いています。週末に、レッドフック(ブルックリン)のアトリエに行って自分の絵を描き、年間30枚くらいの作品を仕上げています。

アトリエはレッドフック地区の倉庫街にある(撮影・富谷瑠美)

――絵画修復士とは、具体的にどんな作業をするのでしょうか。

倉田:アート修復の分野は大きく分けると、ペインティング、紙、オブジェクトの3分野に分けられます。僕が働いているスタジオは主にペインティング修復で、19世紀のものからコンテンポラリー(現代)の作品も修復します。破れたキャンバスをつなぎ合わせたり、絵画の表面に付着した汚れをとったりして、元の状態に戻します。修復に数ヶ月かかる作品もあるし、数時間で終わるものあります。

チェルシーの絵画修復スタジオの様子(撮影・Hiroyuki Seo)

――扱う絵画にはどんなものがあるのでしょうか。

倉田:マーケットの傾向にもよりますが、多いのは1950~70年の間にアメリカで製作された抽象表現やミニマリズムの動きに伴った作品群です。ギャラリーや画商が展示する前に「化粧直し」を依頼してくる、といったイメージで作品が来ます。これまでに、おじいちゃんの形見のような、商業価値はないけれど個人の思い入れが強い作品から、十数億円という価値の絵画まで、いろいろな絵画を修復しました。

――緊張しませんでしたか。

倉田:「薬品を使ってる時に痙攣したらどうしよう(笑)」とか思ったことはありますよ。でも、数十億だろうが数万だろうが、アート作品としては変わらない。どの作品も丁寧に扱えばいい、そう思えば修復しやすいです。 

修復士は生活のための仕事ではあるけれども、価値があるもの(絵画)に触れて直せるので、長いことやっていると、自分の作品にも何かにじみ出てきます。画家として、影響を受けている気がしますね。

子供時代には何かのカギがある

――絵を描くことは、倉田さんにとってどんな作業ですか?

描くことは「瞑想」と似ている(撮影・富谷瑠美)

倉田:2つあって、まず、描く行為はメディテーション(瞑想)のようなものというか、自分をリセットする行為。自分のために描いているというのが1つです。やればやるほど、わかって来ることがあり中々やめられません。自己探求でもありますね。

2つ目は、何をどういう風に描くか。絵画は何がどういう風に描かれているかということに尽きると思うんです。抽象画も含めて。音楽に例えると、歌詞と曲調みたいな。抽象画はインスト音楽。僕は20代前半から、野球を題材にした作品が多いんですが、野球ネタをふんわり描くこと(笑)を突き詰めたいと思ってます。

――なぜ、それを表現したくなると思いますか。

倉田:子供時代に何かカギがある、と思うからでしょうね。全ての大人は子供時代を経験する。時代を問わず、子供時代に感じていた日々は何年経っても忘れないもの。僕の場合は幼少期、親の転勤で引越しが多い中、小4〜小6まで東京にいたんですが、その時に日暮れまで遊んだ野球の時間を強烈に覚えているんです。

自身のデスク周りにも所狭しと作品が飾られている(撮影・富谷瑠美)

ただ、「子供のときはよかったね」ってことじゃないんです。いますごいスピードで世界が変わっていますよね。インターネットができて世界のどことでも繋がることができて、携帯だって3Gから4G、5Gの世界でしょう。そういう世界で、何か変わらないものってなんだろう、と。そこに何かカギがある気がするんです。

――子供時代を過ごした日本に、帰りたいと思うことはありますか。

倉田:気づけばアメリカ生活が20年以上、日本にノスタルジーはあります。いつか日本に帰りたい。でも、未だにニューヨークはアーティストにとっては最高の場所だと思っています。1960年代みたいに月3万円で借りられたソーホーのロフトスタジオなんかはどこにもないですし、多くのアーティストはニューヨークの物価の高さに嫌気がさして、郊外に引越したり、他の都市に移住したりしています。僕はラッキーなことに絵画修復の仕事にありつけたので、それがある以上はステイしようと思っています。

誰かに見てもらえるから「絵描き」っていい職業

孤独が「作品」になる(撮影・富谷瑠美)

――画家を含め、アーティストというのはいつ芽がでるか分からない職業ですね。孤独やプレッシャーを感じることはありませんか。

倉田:そうですね、いろんなやり方があるでしょうけど、やり続けることが出来たらどうにかなると思っています。「このレッドフックのスタジオを引き払って、家族と住む自宅の家賃に充てれば、もっと広い家に住めるのに」って思うこともありました。でも、僕の奥さんは一度もそうしろと言ってきたことがありません。2人目の子供も産まれましたが、週末は1人で絵を描かせてもらっています。そのことにはいつも感謝しています。

絵は、売れなければ価値がないという側面もある。孤独な作業? そうかもしれませんね。ただ、孤独って自己完結じゃないですか。でも「絵」になれば誰かに見てもらえる。絵描きっていい職業だと思います。

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