車嫌いが自動運転に期待すること 求めるのは「乗り心地」ではなく「居心地」

車内は住空間へと近づくのかもしれない(イラスト・古本有美)

誰しも、どうしても興味が持てないものの1つや2つはあると思います。私にとってそれは、クルマと時計かもしれません。ペンやノートなどのステーショナリー(文房具)や家電、服や靴などはそれなりに興味を持って接することができるのですが、ことクルマと時計に関しては昔からあまり興味が持てなくて、雑誌の特集で見かけても女性用コスメと同じくらいの無関心さで通り過ぎてしまいます。

乗るのが怖い

興味がないだけならまだマシですが、クルマに関して言うとあまり運転が好きではない、いやむしろなるべく運転はしたくないという思いすらあります。会社に就職するとき、運転免許証が必須条件だったためやむなく教習所に通いましたが、できることなら運転することを避けた人生を過ごしたいとさえ思っています。

交通事故に巻き込まれたなどというトラウマがあったわけではないのですが、子供の時分よりクルマを運転することにただならぬ怖れを感じていました。恐怖心のあまり、子供なのになぜかクルマを運転しなくてはならない状況に陥り、死にものぐるいで運転するという悪夢にうなされたことは数知れずです。

今ではほぼ治ったのですが、子供の頃はさらに車酔いにも苦しめられていました。とにかくクルマに乗っているだけで気持ちが悪くなってくるのです。しかも私が生まれ育った土地は盆地だったため、遠出するにはどこへ行くにも山を越えなくてはならず、山道をぐるぐる回るので酔いに拍車がかかってしまうのでした。

そんな状態だったので、クルマで移動するときは初めから後部座席に横になっていることも多く、外の景色を楽しむこともあまりできませんでした。私にとってドライブという言葉は、行楽というよりはある種の苦痛を伴ったものでした。

車社会で運転に慣れてきたものの

こんな私でしたが、ある時期、仕事で群馬県に住むことになりました。ここはいわゆる車社会で、社員は皆、1人1台自家用車を持っているという感じでした。しばらくは自転車で頑張っていたのですが、群馬名物のからっ風に煽られ自転車ごと吹き飛ばされて、クルマ嫌いの私もとうとう観念しました。

とはいえ、初めは恐ろしかったものの次第に慣れてきて、それなりに長距離も運転できるまでに成長しました。いざ慣れてみると、クルマの運転もそんなに悪くないものだと思えるようになってきましたし、運転中の時間やクルマの中の空間をいかに居心地の良いものにしようかと考えられるまでになりました。

こうして恐怖心もだいぶ克服できてきたのですが、その後、転勤で東京都内に通うことになり電車移動がメインになってから、クルマを運転する機会も徐々に減り、今では再び運転が怖い状態に戻ってしまいました。

自動運転の進化でクルマ空間が変わるかもしれない

しかし街に出れば、驚くほどたくさんの人々が何食わぬ顔でクルマを運転しているのを目にします。私のように運転そのものに恐怖を抱いている人がどの程度いるのか分かりませんが、できれば運転はしたくない人だって一定数はいるはずだと信じています。

そんな「同志」たちにとって、自動運転の登場と技術の進化は僥倖(ぎょうこう)と言ってもよいのではないでしょうか。もしもこれが実用に足るレベルまで進化し普及すれば、運転という恐怖から逃れられるかもしれないのです。完全に運転から離れられるわけではないかもしれませんが、それでも今よりはずいぶん楽になるはずです。

さらに運転行為だけではなく、空間が変わる可能性も秘めていると思います。クルマの中でどのように過ごすかがこれまで以上に重要なテーマとなり、いずれクルマの中は団らんの場として、あるいは趣味や仕事などの場として、住空間へと近づいていくのかもしれません。

このように住宅の拡張としての機能をクルマが担うようになると、いつしかクルマが乗り心地だけではなく「居心地」で評価される時代が来るのかも、などと考えてしまいます。運転が好きな方にとっては物足りないのかもしれませんが、私のように運転が苦手な人間にとっては、一縷(いちる)の望みでもあるのです。

 

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