【古民家で暮らそう!:01】会社勤めの日々が一転、知らない町で再出発

古民家をリフォームした、現在の自宅。

2008年7月、当時勤めていた会社を辞めて独立してから、早くも11年の月日が経過しようとしています。現在、私が住んでいるのは、兵庫県民でさえもあまり名前を知る人がいない、多可町という小さなまちです。6年前にここに越してきましたが、瀬戸内海と日本海のちょうど真ん中あたりに位置していて、私も妻も名前すら聞いたことがないまちでした。

【連載】古民家で暮らそう!

独立したときには、それまで関わってきた「動物のいのちと子どもの教育」というテーマを掲げて、子どもたちに「いのちの大切さ」を伝える教育ツールの企画開発などを行うデザイナーおよびイラストレーターとして仕事をし始めましたが、現在ではそれらの仕事に加えて、町からの委託事業である移住者の案内役と、移住定住の取り組みに対するアドバイザーとして「多可町・定住コンシェルジュ」としての仕事も行っています。

また、3年前に「古民家ギャラリー&雑貨 kotonoha」として、自宅の一角を改修して人が自由に出入りすることができるお店をオープンし、定期的にコンサートや食事会などのイベントを開催するようになりました。

人と人がつながれば新たな取り組みやビジネスが生まれ、地域が元気になる。地域が元気になれば自ずと外から人がやって来ると信じて、今年の4月からはさらに、コワーキングスペース&シェアキッチンとしての機能を充実させるために、離れに新たな厨房を作り、食品衛生責任者の資格と飲食店営業許可も取りましたので、その気になればいつでも飲食店を営業できる準備が整いました。

多可町に視察で来られた団体様に提供したランチ

町内にはWi-Fiや事務機器が完備された宿泊施設が無いので、遠方から多可町を訪問してくれた人が滞在することができるよう、民泊の営業許可も取得しました。やりたかったいろんな点と点が結びついて線になり、ようやくひとつの流れができてきたかな…と感じています。

2013年に西宮市の生瀬というところから多可町に越して来て、ボロボロだった古民家を改修しながら、少しずつ自分の住処を創り上げてきたこれまでの記録(現在もまだまだ進行中!)を振り返ってみようと思っています。

西宮での暮らし

兵庫県西宮市に住んでいた当時

兵庫県の西宮市というと、瀬戸内海側の海に面したイメージがありますが、南北のかなり縦に長い市ですので、私が住んでいた生瀬は六甲山系の山を越えた、ほぼ宝塚に位置するところでした。昭和中期に宅地開発された古い住宅街でしたが、賃貸で借りていたここの家はちょっと変わった洋館のような雰囲気を持った建物で、とても気に入った一軒家でした。

武庫川沿いの川辺には桜並木があって、庭には立派なモミジと月桂樹の木が植わっていたので、紅葉シーズンには木枠の大きな窓から窓一面の紅葉を楽しむことができるような環境でした。

当時は大阪にある、美術展の企画運営会社に勤務していて、編集デザインの部署で、編集長という立場で仕事をしていました。国内外の展覧会のプロディースをしていたので、ときどき海外にも出張があり、アーティストや美術館、博物館などを取材して美術本や雑誌なども制作していましたので、とてもやりがいのある仕事でした。

妻とは音楽大学で知り合って、卒業後すぐに結婚をしました。パイプオルガンが専門の妻と私は作曲が専門でしたので、我が家にはいつも音楽が中心にあるような生活でした。

40人ぐらいを収容できるような広いリビングには、なぜかステージが最初からあり(家主さんが踊りの先生をしておられたのかもしれません)、半年に一度、ゲストのミュージシャンなどを招いたり、自分たちでもバンドを作ってホームコンサートを開催したりしていました。ご近所さんを含むたくさんの人が我が家に集い、持ち寄りの手作りの料理食べながら美味しいお酒と生の音楽を楽しむのが何よりの楽しみでした。

そんな我が家に2005年4月25日、人生を左右するような大きな転機が訪れました。

JR福知山線脱線事故に遭遇

その日は、いつも通勤で使っている時間の電車に乗り、いつもと同じように2両目に乗っていました。その電車が制限時速を大幅に超えて尼崎手前のカーブで脱線し、線路脇のマンションに激突して車両が大破しました。

2005年4月25日、カーブを脱線してマンションに衝突したJR福知山線の車両。マンションに巻き付くように折れているのが2両目。(撮影:朝日新聞社)

私が乗っていた2両目はもっとも多くの犠牲者を出した車両で、マンションの柱に巻き付くように「く」の字に車体が折れ曲がりました。私の周りにいた人はほとんどの方が即死で、私は右足の太ももから下を、人が積み重なった山に挟まれて、逆さまにぶら下がっていました。

まるで爆撃を受けた現場のように、血だらけの人たちがあちこちに横たわっていて、救急車や搬送をしてくれる近隣の工場の車などもまったく足りない状態で、事故直後にまだ息があった人たちも、助けが来る前に息を引き取っていきました。

事故直後に近隣住民によって運び出されたり、割れた窓や破れた車体から人が外に撒き散らされ、亡くなった方がどの車両に乗っていたのかさえ分からないような悲惨な事故でしたので、悲嘆に暮れていた遺族とともに、亡くなった方の「最期の乗車位置」を探す取り組みを行ったり、国と一緒に事故調査の在り方についての検証作業なども行い、私は生き残った自分の役割を果たそうと必死でした。

妻の異変

そうした中、私とともに遺族の悲しみを受け止め続けてきた妻が、「双極性障害」というこころの病気を患うことになりました。医者からは一生治らないと言われていて、もっともひどいときには体重が37kgまで落ちて、2度の長期入院をしました。

2回目は精神科の閉鎖病棟。このままでは妻が本当に死んでしまうと思ったので、私は彼女が入院している間に、誰にも相談せず会社を辞めて、自宅で仕事をするという道を選びました。今から11年前のことです。

妻とは大学時代から一緒に同棲していましたし、卒業後に籍だけを入れて結婚をした後も、私は作曲家になりたかったので、昼夜が逆転したような生活を4年間ほど送っていました。その後、阪神大震災で被災したペットや、虐待を受けた動物などを保護している、民間の動物保護団体で妻とともに働いていたので、会社勤めをしていた7年間以外はずっと24時間一緒にいる生活をしていました。

なので、独立をしてずっと一緒にいる生活は、なんだか元の鞘に収まったような気もしていましたが、病院から戻ってきた妻はほとんど表情がなく、まったく何もせずに一日中じっとしているような状態でした。大学時代からずっと一緒に生活をしてきた、ヒマワリのような笑顔の妻の姿は完全に無くなってしまいました。

(続く)

 

連載

TAGS

この記事をシェア