山田晃士、ヒット曲から25年。逃げて出会った「ガレージシャンソン」

(撮影:ナカニシキュウ)

シルクハットにドレッシーな衣装、特徴的なアイメイク、そしてマイクスタンドには赤いバラ。まるでヨーロッパ紳士のような高貴なたたずまいで、ひとりエレキギターを奏でつつ、舞台俳優さながらの発声を響かせる不思議なシンガーがいます。“ガレージシャンソン歌手”を標榜するシンガーソングライター、山田晃士さんです。

その名前を、1994年に佐藤浩市さんが主演したテレビドラマ『横浜心中』(日本テレビ系)の主題歌でヒットを飛ばしたシンガーとしてご存じの方も多いでしょう。しかし、現在の彼は当時の芸風とはまったく異なる、まさに“ガレージシャンソン”としか形容しようのない独特の音楽世界で観客たちを魅了しているのです。

いったいどのような音楽人生を経て、いまのスタイルにたどり着いたのでしょうか。山田さん本人に話を聞きました。

ロックなシャンソン「ガレージシャンソン」

──「ガレージシャンソン歌手という肩書きは、ものすごく的確でわかりやすいですね。

山田:そんなこと初めて言われました(笑)。「シャンソン」という言葉が日本には歪曲されて伝わっていると思うんです。お上品なイメージがあるじゃないですか、本来はそんな音楽じゃないのに。だから「シャンソン歌手」と名乗ってしまうと誤解が生じるので、(主流でないことを示す)「ガレージ」という言葉を付けました。

そのことによって、ロックなシャンソン、B級なシャンソンという捉え方をしてもらいたいという狙いです。そんなに高尚なものではないですよ、と。僕はガレージシャンソン歌手を名乗ってはいますけど、本質的にはロックシンガーだと自負しているんです。

(撮影:ナカニシキュウ)

──晃士さんのパフォーマンスは歌の途中で語りが入るところが特徴的ですけど、それがすごく演劇的というか、講談にも近い。しかもそれをエレキギター弾き語りで、というのはおそらく誰もやっていないスタイルだと思います。

山田:隙間を狙っているというわけではないんですけどね。表現する人って、誰しも根底に「他人と違うことをしたい」という思いが絶対にありますよね。初めてギターを弾きながら歌と語りを両方やったとき、自分にとってもすごく新鮮で。この部分を追求したら自分ならではの世界観が確立するのかなって。ソロでの弾き語りを僕は「独り舞台」と名付けているんですけど、これを積極的にやるようになったこの10年くらいで、徐々に今のスタイルが完成していったんだと思います。

──手ごたえを感じたことで、次第にソロライブの本数も増えていった?

山田:その通りですね。もともとはずっとバンドだけで活動していんです。いわゆるフォークシンガーの方たちのように、弾き語りから始まってバンドに発展していくという流れではなくて、逆なんですよ。バンドやユニットでやっていた音楽を、もっとフレキシブルにできないかなっていう発想でやり始めたんです。

やっていくうちに、約束事のまるでない「独り舞台」でこそ際立つ朗読の仕方や、歌の構成というものが見えてきて。最初はバンドに負けじとやっていたんですけど、ある意味ではソロの表現が一番だという部分もできてきたのかもしれません。

「ひとりでしかできない表現というものはある」

──ひとりでステージに立つ意味をどのように考えていますか。

山田:音楽に限らず、お笑いでもダンスでも演劇でも、舞台に立つ人というのはひとりで何かをやり切ることができないと、表現者としてはダメなんじゃないかと思っているんです。ダメっていうのは言いすぎかもしれないけど。もちろん人と一緒にやることもすごく好きなんですけど、ひとりでしかできない表現というものは確実にあります。逆にバンドでしかできないこともありますし、僕にとっては両方必要。どっちかに絞って活動することはこの先もたぶんないと思いますね。

──ひとりで舞台に立てる人が最終的には一番強いんじゃないかというのは同感です。

山田:もし仲間が突然いなくなったときに「僕ひとりじゃ何もできない」ではまずい。うちのメンバーは決して若くはないので、いつ死んじゃうかもしれないし(笑)。それは半分冗談ですけど。

(撮影:ナカニシキュウ)

──今度リリースされるアルバムは、そのバンド名義の作品になるんですよね。

山田:そうですね。「山田晃士&流浪の朝謡(あさうたい)」として。

──晃士さんの名前がドーンと出ているバンド名ですけど、それでもソロとは意味合いが違いますか。

山田:僕の作った曲が中心ではあるんですけど、メンバーが作っている曲もある程度あるんです。「山田晃士にはこういう歌を歌わせたらいいんじゃないか」という感じで作ってくれてるんじゃないかな。あと、バンドでの僕はギターを弾かず、歌うことに専念している曲も多いんです。そのぶん体が自由になるので、ライブでは変な動きをしたり(笑)。結構ソロとは意味合いが違いますね。メンバーはみんな百戦錬磨のベテランで、ジャズミュージシャンも多いんで、楽しいですよ。

「サクセスストーリーへの憧れはなかった」

──過去のお話も聞かせてください。90年代にメジャーレーベルで発表したシングル『ひまわり』が大ヒットしましたが、そのまま「お茶の間の人気者」としてやっていこうという感じにはならなかったんですか。

山田:ならなかったですね。当時、僕の力量が不足していたこともあるんだけど、大資本にスポイルされちゃったところがあって。

──たとえば、曲作りに関して細かい注文をされたり?

山田:着る服まで決められていましたから(笑)。当時のスタッフがビジネス的に間違ったことを言っていたとは思わないですけど、スケジュールも過酷で、僕はそれが嫌になっちゃった。若気の至りというか、わがままでしかなかったですけどね。

(撮影:ナカニシキュウ)

──その状況と折り合いを付けながら、少しずつ自分のやりたい音楽を実現していく方法もあったのではと思いますが。

山田:何か困難が立ちはだかったとき、僕は立ち向かうということを一切しないんです。逃げる男なんですよ。逃げるためにだったら、すごいエネルギーを使うわけ。よく「そのエネルギーを立ち向かうほうに使っていれば……」って言われるんだけど(笑)。なので、そのヒットで手にしたお金が多少あったので、一番行きたかったフランスに逃げちゃったんですね。

──メジャーでヒット曲を出すというのは、多くのミュージシャンの夢であり目標です。未練はなかったのでしょうか。

山田:僕の場合、サクセスストーリーへの憧れはなかったのかもしれないですね。それに、その時フランスへ行ってインディー盤を1枚作って、そこでようやく自分のやりたい音楽が明確になった。『ひまわり』がなければフランスへも行ってないですし、あの曲の存在は自分の中でとても重要なものです。

若くしてデビューし「ブームに飲み込まれていた」

──さらに以前は、橘高文彦さん(筋肉少女帯)率いるメタルバンドで歌っていました。

山田:僕が高校生の頃はジャパメタ(ジャパニーズ・メタル)の全盛期で、LOUDNESSや44MAGNUMといったバンドが大人気だったんです。彼らに憧れて、クラブ活動のようなノリでハードロックバンドを始めたんですよ。そのわりに、高校生バンドとしては結構いいところまでいって。

(撮影:ナカニシキュウ)

──当時はハイトーンボイスでシャウトをしていて、現在の芸風とはかすりもしないほど違いますよね。

山田:ブームに飲み込まれていたんです(笑)。表現としてやっていたというよりは、スタイルだけ真似していい気持ちになっていたというか。でも、10代の終わり頃に声帯ポリープができてしまったこともあって、「自分は本当にこんな歌を歌いたかったのか?」と自問自答するんですね。バンドではほとんど詞も曲も書いていなかったので、改めて自分の思いを歌にするという作業をやってみたら、完全にそっちへ興味が移ってしまって。

──本当に表現したいことと向き合ってみたら、それは全然メタルではなかったと。

山田:面白いことに、当時一緒にやっていた橘高くんは、最初から純粋な自分の表現としてメタルギターを弾いていたんです。バンドを解散する時も「俺は一生メタルをやっていく」という名言を残してますし、皆さんご存知のように今でもバリバリにメタルギターを弾いているじゃないですか。

──そういう意味では、橘高さんは早熟だったんですね。

山田:本当にそうだと思います。彼は大人でしたね。僕のスタイルがいま全然違うのは、当時とは考え方が根本的に変わったからなんですよ。

 

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