知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・下~沖縄・東京二拠点日記(番外)

ゴーストタウンと化した2011~12年ぐらいの真栄原新町。

1962年には性病が伝染しているという理由で、コザ市内のバーやキャバレーにオフリミッツが発令された。八重島、センター通り、ワイキキ通り、照屋、城前、石川市にまたがった。

 知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・上
 知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・中
→知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・下

業者たちはまた慌てて対処を協議して、女給の血液検査証や検診証明書などをその材料にしたが、オフリミッツは金武や辺野古、そして那覇市内の歓楽街にまで波及していった。

今のところ、オフリミッツはコザ市を主体にしているが、警告なしのオフリミッツは久志村辺野古や金武村にもいい渡されており、米軍相手の歓楽街をもっている市町村は戦々恐々で、ことの成り行きを見守っている。現在、警告無のオフリミッツをいい渡されたところは久志村辺野古5、金武村1、コザ十字路3、城前2、センター6、ワイキキ通り3、八重島4、胡屋9、普天間6、ニュー普天間2、波の上2で全島では45軒。こんど米兵に性病をうつしたという理由でオフリミッツをいい渡されたところは石川3、コザ十字路12、城前2、センター6、ワイキキ3、八重島4、胡屋9、諸見1、普天間10、ニュー普天間6、波の上3と計59軒になっており、ほかにオフリミッツの警告は金武1、石川9、胡屋9、諸見1、普天間4、ニュー普天間4、波の上1pの計29軒が文書や口頭でオフリミッツの警告を受けている。(後略〕(『沖縄タイムス』1962年3月21日付)

コザ市の死活問題に発展するため、大山市長は解禁要請を出すなどしたが、コザ市内のキャバレーやおでん屋は米兵の出入りには不適当だとか、酔った米兵に酒を飲ました、売春行為の疑いがあるとの理由で警告書は出し続けられた。
「不適当」という何を指しているのかわからない表現は業者を戸惑わせた。さらにオフリミッツは続き、コザ警察署管轄では124軒が対象となった。

こうしたなりふりかまわぬオフリミッツの嵐を背景にして、1958年に廃止をされていたAサイン制度復活を提案させてはどうかという提案が、米側ではなく、琉球政府側のほうから出されたのは興味深い。

これは米兵相手の飲食業や風俗営業の店が増え続けているため、衛生面で自主管理ができない状態になり、Aサインの復活により問題のある店の淘汰を狙ったものではないか、あるいは米軍の監視の目が届きやすい範囲の1000~1200軒に絞る目的が裏にはあるのではないかという声もあがった。
一方で、街に出てくる米兵の総数が減少しており、新Aサインをとるための基準を満たすのは設備投資の面などで無理だ、という意見も聞こえるようになる。

しかし、沖縄民政府は米軍合同懲戒委員会に提出するためのAサインの届け出を受け付けを始めてしまい、米側も了承する。新Aサインの予備検査は米琉合同のメンバーでおこなわれ、水洗トイレの有無、天井が明るい色か否か、トイレや台所に照明はついているかなどを検査を受けた。
店舗数を制限するという目的は誤った情報であることが判明し、沖縄側は米兵の行動に対して「沖縄側」だけに非を求めるのではなく米兵も罰することを求める一方、業者や女給の写真を憲兵隊に登録するということも取り決められていった。

「Aサイン」制度復活、そして没収

ゴーストタウンと化した2011~12年ぐらいの真栄原新町。

1962年6月、新Aサイン制度が復活したが、同月末には個別店のオフリミッツが発令され、Aサインが没収される出来事が起きた。女給が米兵を客引きしたということが理由だった。Aサインは没収されたら6カ月を経て、一から手続きを踏まねばならない。それらの許認可権限は米軍合同懲戒委員会が握っていた。

不衛生や売春を理由に中部地区での新Aサイン没収はとまらず、業者らは我慢の限界に来て、Aサインを一括返上しようという「一揆」のような動きすら出てきた。そうなれば米側は対抗策として「通り」や「地域」をオフリミッツにする処置に出るという、真っ向から対立する構図になった。

その間にもコザ、普天間、浦添、那覇で新Aサインの没収は続き、新Aサインの一括返上は、生殺与奪権を握る占領者である米政府に対しては無力であり、自殺行為だということを思い知らされ、沖縄ではアメリカの決めた制度に従ってさらなる衛生を徹底し、売春を防止していくしかないという意見に萎むように集約されていった。

1962年12月には米軍風紀取り締まり委員会が、新Aサインの新基準を発表する。店の設計は米側に準じること、主要通りに面していること、トイレや洗面所は男女別々にすること、排水溝に蓋がしてある衛生的で明るい立地環境であること、建物はスラブ葺きのブロックつくりであること、小型店舗は最低25人は入れる19坪を確保し、大型店舗は30人以上を収容できる24坪を確保するようにすること等が決められた。

当然、業者からは不満の声があがる。立地条件や敷地の広さを確保することは、経営状態から考えると大半の店がクリアできないからだ。

しかし米側は業者の声を聞く耳を持たず、新基準は同年8月に実施され、業者たちが右往左往しているうちに、新基準に合わないコザや浦添、北谷の20数店舗がAサイン取り消しとなった。

理由は、トイレットペーパーがないことや風通しが悪いこと、水洗トイレの水が出ないことなどだった。他にも床が湿っている、食器にヒビがはいっている、消火器が置いていないなど、恣意的で重箱の隅をつつくようなものばかりだった。

「Aサイン」一括返上と業界の分裂

老婆に取材中の筆者。このあと、ここは空き家になった。老婆はここを売買春(ちょんの間)に貸していて家賃収入を得ていたが、摘発でそれが入らなくなり、元売買春宿に住んでいた(編集部注:画像の一部を修正しています)

Aサイン取り消しの勧告の警告は相次ぎ、懲罰委員会のオフリミッツ旋風に怯え続けながら、それでも業者や行政は基準の緩和を求めていった。米兵をなるべく基地内に出したくない意思のあらわれであるとか、売春をともなうAサイン業者をこれで一掃したいのではないかという声もきこえるようになる。
ついに堪忍袋の緒が切れた名護のAサイン業者9軒が、憲兵隊に対して一括返上をおこなったのである。

Aサインを返上した名護の業者の言い分は「憲兵隊の取り締まり原則がきびしすぎる上に、外人が来なくても店はやっていける。万一規則に違反して営業停止されたら死活問題になる」というもの。(中略)ひんぱんに憲兵隊から立ち入り検査をうけ「便所にせっけんがない」とか「おしぼりを出すな」「カウンターに雑誌をおくな」などうるさく言われてきた。名護の業者としては、久志村のキャンプ・シュワブや金武村のキャンプ・ハンセンのマリン兵たちはほとんどコザへ行って名護にも遊びに来てくれない。沖縄の観光だけで十分営業がなり立つ。(後略)(『琉球新報』1963年3月17日付 )

この一括返上は同業者らに動揺を与えたが、それでも基準緩和を求めてAサイン業者800名以上が集まり、「1万8000人余の業者および従業員、家族の生活を守りぬこう」と気勢を上げ、米側や政府、立法院に対しても陳情を続けていくことを宣言した。

しかし、米側は意に介さず、いかなる緩和も認めなかった。新Aサイン制度の実施時期もスタート延期もしない。我慢ができなくなった業者らの一括返上の動きは活発化し、Aサインの業界は分裂状態に陥っていった。

その後、既存業者には一部緩和が認められたが、新規参入の業者には認められないという情報も流れたが、けっきょくは甘い観測にすぎず、新基準は実施されることになった。

Aサイン業者は新基準の適合した建築物にするために建築ラッシュになったが、米側は簡単には許可を出さなかった。周囲の環境が暗い、道路が未舗装であるという理由だが、それらは業者の自助努力だけではどうにもならないことだった。

こうして売買春の温床の大きな一つであったAサインバー店舗や、それらが集中する基地に付随した特飲街は存続の危機に立たされていくのである。

1963年8月1日に新Aサイン制度が実施され、全島で400軒ほどが新Aサインを掲げることかできたという。しかそれは既存店の半分ぐらいが振るい落とされた末の廃業を意味していた。

米人相手のバー、キャバレー、クラブ、レストランの基準が8月1日からかわり、新しい「Aサイン」免許をうけていない店は、米人相手に営業できなくなった。長い間もめた”Aサイン騒ぎ”も、これで幕。新Aサインをもらってホットする業者。これから改装に馬力をかけようとする業者。資金がなく、新Aサインを横目でにらみながら店を閉じる業者など、悲喜こもごもの表情。Aサインをもらったのは、コザ市内ではゲイト通り、センター通りが多く、諸見、照屋などは少ないようだ。新築の建物が多い金武のバー街は、100軒近くが許可になったといわれる。新Aサインを受けた店や大きな店を建築中のところは新基準で店の数が制限されるので、むしろ喜んでいるようだ。新築が1万ドルから3万ドル。増改築で1500ドルから5000ドルという膨大な設備投資をしており、これらの施設資金を償却するには3年ないし5年かかるとコザ市の瀬田米三組合長は語っている。古いAサインは各組合長がまとめて米軍憲兵隊に返上する予定であり、2 ~3日もたつと、特飲街はさびれるものとみられる。(『沖縄タイムス』1963年8月1日付)

センター街も新Aサインを取得できた店は変化に対応することができたが、一方で廃業する店も続出した。コザでは現在でも繁華街と賑わう、中の町や胡屋でも店をたたむ業者が相次いだ。とりわけ借家でバーを経営していた業者は新基準に適合させるための工事費用を借り入れるための担保がなく、にっちもさっちもいかなくなったという。

自宅も借家の場合はより深刻で、コザの場合は旧Aサイン業者の半数近くが借家住まいをしていたから、新Aサインのための設備投資はどだい無理な話だった。

ゆえに店は淘汰されていき、既存のAサイン業者は廃業や転業を余儀なくされ、新Aサインをもたない店は沖縄人相手に商売を続けていくというベクトルに切り換えた。

アメリカ世からヤマト世へ。米兵の姿は減った

かつてはガーブ川沿いに広がっていた特飲街の十貫瀬(ジュッカンジ)。

このようにして戦後に次々にできていった「売買春の街」はドルショックや、度重なるオフリミッツ、そしてAサイン制度などの性病予防施策でふりまわされるだけふりまわされ、ときに媚を売り、ときに造反しながら、特飲街は生き残りを模索してきた。

1960年から勃発したベトナム共和国と南ベトナム解放民族戦線の闘いからはじまる、いわゆるベトナム戦争特需で各地の特飲街は再び活況をていしたが、1973年のアメリカの全面撤退で沖縄の基地の街も景気が悪化、1975年のサイゴン陥落で終結を迎えると、それは拍車がかかっていくことになる。

ぼくは普天間や辺野古にあるAサインバーを何軒もたずねた。それらの店はベトナム戦争時にオープンしたもので、それは天井や壁を埋めつくされたように貼られた1ドル紙幣に書き残された日付を見ればわかる。持ち金を使い果たして地獄と化していたベトナムに送り出される兵士たちは、沖縄へ生還してくることを誓い、あるいはここに自分がいたことの証として、戦死の恐怖に怯えながら貼り付けたのだろうか。

1972年に沖縄は本土復帰し、日本国沖縄県となり、日本の法律によって施政されることになる。アメリカ世からヤマト世へ移行し、売春防止法が遅れて沖縄でも施行され、「売春」は違法行為ということになった。
沖縄の経済もアメリカからの経済的な救援もあったが、地場産業や観光業も自力で回復・成長させていく一方、復帰後は膨大な沖縄振興策もとられ、かつてのような米軍相手の商売をせずとも経済がまわるようになっていった。またかつてよりもドルの価値が下がり、米兵たちも夜の街で大盤振る舞いできなくなっていく。

普久原朝充くん作成の「沖縄特飲街MAP」

中央パークアベニューでスポーツ用品店を営む金城賢徳に話を聞いた事かある。
「米兵が事件を起こすとオフリミッツが出たり、外出時間制限などが発令したこともあったし、どんどん米兵の姿は少なくなっていきました。それに円が強くなり、米兵は購買力をどんどん落としていきました。沖縄の経済も本土並とはいえないまでも上がっていきました」

「かつての特飲街以外にも県内のあちこちに賑わう街がたくさんできていきましたし、巨大なショッピングセンターもできるようになった。米兵で賑わった店はとくにバブル崩壊以降、つぶれていきました」

そう金城は当時をふりかえる。たしかにゲート通りの一部のクラブをのぞいては、沖縄の街で飲む米兵の姿はほとんど見かけなくなった。

しかし、日本にある米軍基地施設の75パーセントが集中する沖縄では、駐留米兵たちによる性犯罪などの凶悪犯罪は現在にいたっても沖縄県民を苦しませ続け、普天間基地返還のきっかけとなった1995年の女子中学生レイプ事件も、沖縄で日常化した米軍犯罪の連続性の中にある。

さらに事件を起こした米兵への逮捕権利や裁判権も、かつてよりは日本側に権限が委譲されたとはいえ、地位協定は変わらず存在し、彼らの犯罪は「公平」に裁かれることはない。ちなみに現在でも、米兵が事件を起こすたびに、夜間の外出禁止措置やオフリミッツが発令されることが、ごくまれにある。

 

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