「孤独死」の本質的な問題解決に必要なのは「死亡を早期発見するシステム」

孤独死の問題とは(Photo by Getty Images)

最近、孤独死の問題が身近になりつつある。

それは高齢化社会を迎えて、老人が増えたということもそうだし、また地域社会が機能しなくなり、孤立する世帯が増えたということもそうだ。

そしてなにより、自分自身も40歳を過ぎて一人暮らしなので、将来は孤独死をしても全くおかしくない状況にある。

7月に、特殊清掃の現場などを取材しているライターの菅野久美子さんと、社会学者の常見陽平さん、そして私の3人で、孤独死とロスジェネの問題を語るイベントをさせていただいた。

そこでは様々な論点が発見されて楽しかったし、自分の主張が参加された方たちのヒントになってくれれば幸いなのだが、イベントだけでは十分に主張できなかった、孤独死についての論点をここで提示しておきたい。

孤独死の報道から学ぶべきこととは

孤独死ということが、様々な手法で伝えられるときに、どうしてもその主な主眼は「孤独死をしてしまった人が、いかなる生活を送ってきたか」という一点に集中しがちである。

「Aさんは、数年前に妻を亡くし、一人で生活している。今は退職しているが、かつては一流企業に勤めていた。仕事が忙しく、地域との接点はあまりなかった。

一流企業に努めていたプライドだろうか、近隣の人たちを見下しているようなところがあり、地元の民生委員が訪ねてもすぐに追い返されてしまう。

そんなAさんの部屋から異臭が漂ったのが8月の暑い日。Aさんはお風呂でドロドロになった状態で発見された。Aさんの死亡から1カ月以上が経過していたと見られる」

このような内容の孤独死のルポルタージュ記事があったとして、我々はこの記事から何を学べばいいのだろうか?

「近所付き合いをちゃんとしましょう」だろうか?

「他人を見下さずに優しくしましょう」だろうか?

こうした記事からは、どうしても我々は「Aさんの失敗」を探し出そうとしてしまいがちだ。

そして「こうした失敗例を学び、教訓として、正しい生活をすれば自分は孤独死を避けられる」かのように考えてしまう。

しかしこのAさんは、本当に「生き方を失敗した人」なのだろうか?

そしてそもそも、孤独死とは「生き方を失敗した人間の哀れな末路」でしかないのだろうか?

孤独死は哀れな末路でない

「公正世界仮説」という考え方がある。

単純に言えば「世界は公正であり、良い行動をしていれば良い結果が、悪い行動には悪い結果が伴う」という考え方だ。日本でも馴染み深い言葉で言えば「因果応報」であろうか。

この考え方が厄介なのは、たとえ原因が被害者に存在しなくても、その不幸な結果から「きっと、このような不幸に見舞われる側には、それだけの原因があったに違いない」と考えてしまうことだ。

例えばレイプのような犯罪が行われたときに「誘うような服装をしていたに違いない」といった声が挙がることがあるが、こうした被害者非難も、公正世界仮説の1つである。

そして、孤独死をした人のルポルタージュを読み、その人の行動から失敗した原因を探るようなことも、また公正世界仮説による考え方である。

しかしそれは明確に間違いであると言える。なぜなら、生前にいくら幸せであったとしても、死ぬときに一人ではないと限らないからである。

生前に一生懸命に仕事に励み、長生きして多くの人たちに囲まれて幸せに暮らしていても、パートナーに先立たれ、子供も遠くに暮らす中、年をとってなかなか家から出られなくなった一人暮らしの老人が、立派な一軒家で死んでしまうようなことも、実際に起きているのである。

「あの、いつもニコニコしているおじいさん、しばらく見ないわねぇ」と近所の噂になっているころ、当人は家の中で腐っている。そんなことが当たり前のように起きているのである。

小さなアパートで誰にも気づかれずに死のうが、大きなお屋敷で誰にも気づかれずに死のうが、孤独死は孤独死である。

孤独死とは、生き方を間違えた人が陥った、孤独で哀れな末路ではなく、単純にその人がすぐに発見されない状況下で死んだというだけの話である。

孤独死問題の本質とは

そもそも孤独死問題の本質とはなにか。

人が死ぬと数十キロの肉の塊となる。それがそのまま放置されれば、その場で腐ってしまう。元人間であった肉の塊が腐れば腐臭がし、体液が流れて虫が湧く。極めて不衛生であるし、死臭が家財にこびりつく。

単純にそれだけの話なのである。そしてその単純なことにより、困ってしまうのが、家を貸している大家さんだ。

孤独死の問題は主に単身世帯の多いアパートなどで発生しがちである。今後、高齢者が増えれば増えるほど、孤独死問題は大きく注目されることになる。

そうなれば、特に貧しい単身世帯が高リスク群とみなされ、大家は入居を拒むようになる。孤独死問題は貧困問題にも直結するのである。

孤独死の解決方法とは

人間はいつしか死ぬし、その最後はその時の状況による。

孤独死は「孤独」という名前がついているが、決して生前の状況の話ではない。あくまでも死んだ後にすぐに発見されるかされないかというだけの話なのである。

だから、孤独死の解決方法は「人を孤独にしない」ではない。「死んだら即発見し、腐らないうちに処理をする」である。

処理とは火葬やエンバーミング等であり、処理をする理由は「衛生上の必然性」である。そこには「孤独」という曖昧な事柄が挟まれる余地は一切存在しないのである。

必要なのは、たとえ孤独に死んだとしても、すぐに遺体を発見して処理をするためのシステムを作り上げることである。

それこそ、自動火災報知機で火災が発見されるように、人の死を感知できるシステムがあればいいのである。

人の死を感知するセンサー

人体を感知するセンサーはとうの昔に実用化されており、人体を感知してライトが付くシステムはすでにあらゆる場所に使われている。これを人の死を検知するために使えないか。

また、トイレの使用を記録するなども手段の1つだと思う。人が家の中で活動していることを感知するシステムだけでいいのであれば、いくらでも方法は考えられる。

少なくとも「単身世帯を減らすために街コンや老人同士のお見合いを行う」などという冗談よりは、孤独死の本質的な問題を解決する成果を期待できるだろう。

もちろんプライバシーの問題はあるだろうが、少なくとも孤独死予備軍の自分としては、将来住む場所が無くなるよりは、生きていることを監視されている方が、まだマシではないかと思う。

「孤独死」という言葉を聞いたときに、つい我々は「個人の孤独と死の問題、ひいては生き方の問題」と考えがちだ。

しかし、孤独死の本質は「人が死んだら腐るから、早めに処理が必要だ。そのためのシステムを整備しよう」という問題なのである。

この問題設定を間違えてはならない。

 

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