47歳シングルマザーが国家資格「着付け技能士」を取得して自立するまで

坂口綾さん(撮影:萩原美寛)

いつか、ひとりになってしまう。

坂口綾さん(47)がそのことで焦りを感じたのは、双子の娘が小学校に進学し、少し手が離れた2008年頃のことでした。子どもたち以外に生き甲斐がなく、このままでは、子どもたちが巣立った時に寂しくなってしまいそうだったからです。彼女が「いつかひとりになった時のための準備」を始めたのは、その時からでした。

綾さんは、双子の娘たちが2歳だった2003年に離婚し、シングルマザーになりました。離婚後は、国立市にあるジュエリーサロン「スカーレット」のスタッフとして働いていました。双子の子育ては過酷で、ひとりがインフルエンザにかかると治る頃にもうひとりがかかり、最後に綾さんもうつるという連鎖が起き、何日も出勤できないこともあったほどで、世話に追われるうちに時間はあっという間に過ぎていったのです。

彼女に転機が訪れたのは、娘たちが小学校に入学した後のこと。子どもたちはいつか巣立ち、自分はひとりになるのかもしれない。そのことに気づいた時「なにかをしたい」という気持ちに拍車がかかりました。そして収入を増やすためにも何か技術を身に付けた方がいいのでは、と考え始めたのです。

ジュエリーサロンではデザインを担当することも。(撮影:萩原美寛)

自分がしていることの延長線上で

何かの技術を身につけたいと考え始めた綾さんが大切にしたのは「今の仕事の延長線上」でした。ジュエリーサロンに来店するのは綺麗になりたい女性がほとんど。なので、お客様がもっと喜ぶためにできることは何だろう、と思いをめぐらせた時、彼女の頭に閃いたのは、ネイルでした。店の一角にジェルネイルコーナーを作るのはどうだろう、と。

その計画は、うまく行きました。お店のかたわらネイルスクールに週1で1年半通い、ネイリストの資格を取得し、ネイルサービスを実現させたのです。お客様にも好評で、リピーターも増え、数年ほどは順調でした。これならやっていけるかもしれない、と自信がつき始めた矢先、突如として彼女の手のひらを、強いかゆみを伴う湿疹が襲いました。皮膚科に行くとジェルネイルアレルギーを発症したと言われてしまったのです。

着付け技能士という国家資格

アレルギーは治まらず、ネイルサービスを他のネイリストに引き継ぐこととなり、綾さんにはまた時間ができました。そして今度は、ショップが行っていたウェディングプロデュース業の手伝いとして、色無垢や打掛などの着付けのアシスタントをしているうちに、着付けはどうだろう、と思い至りました。結婚式に参列する花嫁の家族も留袖を着ることが多く、需要はあると踏んだのです。

今までお願いしていた着付け師さんが高齢になってきたこともあり、自分が着付けの技術を身に付けたらいいのではないかと調べてみると、2010年に着付け技能士という国家試験が始まったばかりだということを知りました。流派に関係なく着付け技能を認定してもらえるこの資格を取りたいと考え、今度は他装(人に着付けをすること)を学ぶために着付け学校に週に1度、10か月通い始めたのです。

着付けを覚えて行動の幅も広がったと話す坂口さん。(撮影:萩原美寛)

できるだけお金をかけずに着物を楽しむ

着物には何かとお金がかかります。着付けのための道具も教室で売っているものは高いので、時には100円ショップで材料を見繕い、自作も。例えば、ズレ防止に帯枕に挟み込む結びTという道具も、100円ショップでしゃもじと医療用ガーゼで代用品を作成。友達にも「自分で作ったの!?」と驚かれましたが、買うと何倍もするので、自作してみたくなってしまうのです。

着物についても高いものは買えないので、オークションや特売会を利用し、安くて良い品を探せるよう見る目を養いました。着物というと高くつきそうと怖気づく人が多いので、そんなにお金をかけなくても楽しめるということを実践していきたかったのです。

想像以上に大変だった試験準備

着付け技能検定には、筆記と実技とがあります。筆記については今まで学習してきたことが出題されるのでそれほど大変ではなかったのですが、2級の実技は訪問着と帯を25分以内に着付ける、などと制限時間が設けられていて、かなり大変でした。最初は間に合わず、自室で深夜にタイマーで測りながら着付けを続ける日々。役立ったのはネットで見つけた無料の着付け動画。何度も見直すことができるなど、学べるところが数多くあり、心強い存在でした。

また、試験当日も大変でした。道具の他に着物を着せる大型のトルソーを抱え、混んでいる電車で移動しなくてはならないのです。到底ひとりでは運べず、娘さんにヘルプをお願いしました。苦労の甲斐あって試験本番では、時間内に着付けも終えて、無事着付け技能士2級を取得。着付け師としての第一歩を踏み出したのです。合格後に舞い込んだ初仕事は、知り合いの大学生のお嬢さんの卒業式のための袴の着付けでした。

振袖を着付けられた時の達成感は大きい。(撮影:萩原美寛)

着物で海外ひとり旅を

今では綾さんは、着付けの依頼を受けるほかにも、月に4回、お店で着付け教室を行うように。先日は根津まで足を伸ばし美術館を巡るなど、生徒さんと和装で出かける楽しみもできました。着物を一緒に楽しめる生徒さんたちができたことも、大きな喜びのひとつとなっています。大好きな着物を楽しめて、しかもお金もいただける。綾さんはこの資格を取って良かったと心から思っています。

年末には今度は1級の試験にも挑戦します。1級試験は振袖の着付けなので、難易度はさらに上がります。しかも今度はトルソーではなく、生身の人間に着付けなくてはならず、モデルは自分で見つけて会場に同伴しなくてはなりません。モデル事務所から有料のモデルを借りる人もいるそうですが、どんな人にもきちんと着付けたいという考えから、綾さんはモデルは誰か知り合いに頼むつもりでいます。

双子の娘たちはもう18歳で、巣立ちの時は近いと感じています。けれど、着物の世界があるので、そのことを前ほど寂しくは感じません。今では、もっと大勢の人に和装の素晴らしさを伝えるにはどうしたらいいのかということを考えるのに忙しい日々です。最近は海外ひとり旅にも挑戦するように。目指すは着物での国際交流です。

「いつか大好きなロンドンを和服で歩いてみたいんです。古い街並みに和服は目立つでしょうね。着付けの国際免許も持っているので、活用できる日も来るかもしれません」とプランは膨らむ一方です。

 

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