東大でない中川淳一郎さんが駒場寮で得た人生訓〜私と東大駒場寮・第3回

東京大学の駒場キャンパス(東京都目黒区)にかつて存在し、2001年に取り壊された「駒場寮」。私はその寮を撮った写真集の再制作を、2011年の冬から始めていた。

2015年2月、ネットニュース編集者・PRプランナーの中川淳一郎さんから、突然メールが届いた。そのメールは、なんと「東大生ではないのに、駒場寮に2年間住んでいた。駒場寮廃寮反対運動にもちょっとだけ関わっていた」という、驚くベき内容のものだった。今回は、中川さんと駒場寮の関わりを改めて詳しくうかがった。中川さん提供の寮の写真を交えながら紹介する。

現在の中川淳一郎さん

予備校の講師に連れられて、駒場寮に出入りするように

――中川さんは、大学が一橋大ですよね? なぜ東大の駒場寮に関わることになったのでしょうか。

中川:初めて駒場寮に行ったのは、大学に合格した直後です。大学受験のために通っていた予備校の講師だったAさんという人が、駒場寮の北寮9Bの部屋、「基礎科学研究会」、略して「KKK」の部屋に出入りしていたんです。

駒場寮に住んでいた頃の中川淳一郎さん(中川さん提供)

大学に合格して、お祝いだ〜って下北沢に飲みに行って。そのあと「じゃあ今から駒場寮に行くか」って話になって、そのときKKKの部屋に初めて行ったんです。そのとき廃寮の話と「廃寮反対運動があってさ」っていう話も聞いて。

KKKは、長年続く部屋で、代々住人が入ったほか、かつて住んでいたAさんの教え子で、仲良かった人たちが、自然と集う部屋だったんです。Aさんが気に入った学生を、東大生中心ですけど、駒場寮に連れて行くっていう。

「廃寮反対運動にもちょっとだけ関わっていた」というのは…特に左翼的運動に興味があったということでは全然なくて、単にAさんと仲が良かっただけ。(寮から近い)下北沢で終電過ぎても飲んでたときに、泊まれる場所が欲しかった。そんだけ。あとは、OBのおっさんたちが花見のときに「戦うぞ〜!」とか言ってるから、なんか面白くて。「じゃあオレも協力するわ!」みたいな感じで。1994年の花見で、あとで一緒に住むことになる小泉将司くんとも知り合ったんです。

秋の寮祭の様子(中川さん提供)
第2回で書いた「駒場寮祭」のステージの巨大な立て看板(中川さん提供)

「代わりに面接受けろ」入寮の面接は「替え玉」で突破

――駒場寮に住むことになったのは、どういったきっかけからなのでしょうか?

中川:1998年の9月から、恵比寿でルームシェアしていたんですよ。でも、相手が翌年の6月に出ていったんですね。その部屋で1人で暮らしていたところ、同じ年の8月に、偶然、会社に自転車便のメッセンジャーとして小泉くんが来て、再会したんです。

ビックリして、「久しぶり、まだ駒場寮に住んでるの?」って聞いたら「住んでますよ。でも僕ひとりだと電気がもらえなくて…」と小泉くんが言うので。(筆者注:当時、駒場寮は大学側に電気を止められていた。寮生管理の発電機による自家発電をしており、電気が使えるのは2人以上が住んでいる部屋の場合に限られていた)

で、オレが入ることによって、小泉くんがろうそく生活から脱出できるんだったら、いいんじゃないかなと思って。恵比寿にひとりで住むのもな〜って思っていたし。で、その8月末で恵比寿の家を出た。なんか、面白いかなって思ったんですよね。KKKにAさんが連れてきた東大生に「オレの代わりに面接受けろ」って言って、替え玉で面接を受けさせて入寮しました。

中川さんが暮らしていた部屋(中川さん提供)

――このときって、普通に会社で働いてるわけですよね?

中川:そう。でも、スーツ着るわけじゃないから、単に、愛想が悪い、ちょっと年取ったやつがいるなと思われてたと思うんです。当時オレは26歳で、院生だったらそれくらいの年齢でもおかしくないですよね。

初めは特に会社は辞める気はなくて、Tシャツ屋さんを、副業でやろうと思っていたんですよ。在庫を200枚作っていて、会社のロッカーに入れてた。大学時代にTシャツを作って、数日で190万円売ったんですよ。そういう成功経験があったから、イケると思って。

会社を辞めようと思ったのは…あまりにも仕事が忙しすぎたから。あとは、その会社では出世しないことがわかったから。会社に、50代の暇そうなおじさんっていうのがいっぱいいたんですよ。出世しないで、ああなるのはやだなと。でも、出世してる人を見ても、深夜3時に打ち合わせとかしてるから、これもやだなと思ったんですよ。それで、会社員っていう生き方が無理って思ったんです。

それで、Tシャツを売ろうかなと。NIGO®さんに次いでSANGOさんになるか、って。

(筆者注:2000年前後、若者ファッションの流行として「裏原宿(裏原)系」というものがあった。NIGO®は裏原系ブームの火付け役とされるファッションブランド「A BATHING APE®」の創業者。猿のキャラクターTシャツは大ブームとなった。「NIGO®」は「藤原ヒロシ2号」の略。藤原ヒロシはミュージシャン、ファッションプロデューサー。つまり、中川さんは「藤原ヒロシ3号」→「SANGO」になりたいと思っていたということ)

でもその頃、今度は小泉くんが出ていかなければならなくなって、オレひとりの部屋になりました。ひとりになったので、電気なし生活になりました。

中川さんが暮らしていた部屋の間取り図(中川さんからの取材を元に作成)

「経営と文体の基本は寮での読書で培った」

――それで、会社を退職されて……Tシャツ屋さんは、結局営業したんですか?

中川:ネット通販でやってた。メールで注文が入ったら、封筒に入れて送る。でも、36枚しか売れなくて。だから、全然忙しくないんですよ。今みたいにツイッターとかないし、ウェブサイトをどう宣伝していいのか、2001年当時は、全然わからなかったですね。

――中川さんが「cakes」で連載していたコラム「赤坂のカエル」によれば、駒場寮では主に筋トレと本を読む生活をされていたようなのですが、どういった本を読んでいたんですか?

中川:松下幸之助の本を読んでいたんですよ。『商売心得帖』と『経営心得帖』。会社を辞めるときに、会社の先輩にいただいた本なんです。フリーになって、会社を経営するようになってからも、今でもこの本が仕事のベースになっていますね。ほかは、駒場寮にあったマンガとか……あとは、私物の椎名誠と東海林さだお、司馬遼太郎かな。

椎名誠と東海林さだおに関しては、同じ本を繰り返し、何度も読んでましたね。今の文体のベースになっています。暇だからねえ。何回も読んでたから……。

そのときは、まだライターになろうかなとは、思っていなかったんですよね。

まだ、Tシャツの通販に可能性を感じていた。

中川さんと駒場寮の関わりの年表(中川さんの話を元に作成)参考文献:「赤坂のカエル」(「cakes」連載)、「東大駒場寮物語」松本博文:著(KADOKAWA)、「学内広報」No.1230 2002.2.22(東京大学広報委員会)「駒場寮問題の完結と将来の駒場キャンパス」

――「赤坂のカエル」で、「6月、雨が降る中、駒場寮で読書をしていたところで猛烈な焦りが生まれ始めた。」っていうところがすごく気になっていたんですけど……。

中川:いや、もうさすがに焦りますよね。27歳の男が、2ヶ月以上、何もしてないわけですよ。東大にも新入生が入ってきて、サークルとか楽しそうにやってる姿を見て、この子たちには華々しい未来が待っていて……将来、財務官僚になるんだろうなとか、マッキンゼー入るんだろうなとか。オレはそこまでいかないけど、大企業の社員の立場を捨てて、なにやってんだと。

でも、いま思えばそういう時間は大事だったと思いますよ。ここで経営の基本と文体の基本が培われているわけですからね。

強制執行の日は、寮生に迷惑をかけてはいけないと思って、オレはトイレの窓から逃げたんですよ。で、当時近所に借りてたアパートに大事な物を全部移動して、もう1回東大に戻ってきて、強制執行の様子を外から見ていた。

それから、大学の同級生の紹介で、7月から少し始めていたライターの仕事を、本格的にやりはじめました。

駒場寮のトイレ
2001年8月22日、強制執行の様子

――これまでのお話を聞いていると、中川さんって、人との出会いを大事にしていて、誰かに声をかけられて、「面白いかな」って、それだけで行動してしまうところありますよね。柔軟に生きているというか……。

中川:人生って、自分の才能だけではどうにもならなくって、誰か引き上げてくれる人の存在なしには、開けないんですよ。藤井聡太さんみたいに将棋が強いとか、よっぽどの才能がある人は別だけど、普通の人は「誰と会うか」しかないんですよ。本にしてもそうですね。オレは椎名誠と東海林さだおに出会った。人に会うことと本に会うことは一緒だと思います。

あとは、人生がうまくいくには、固定費を減らすことなんですよ。寮費が6500円でしょ?発電機代で1500円取られてるけど、本来5000円で。突然収入が減っても、固定費が少なければ、なんとかなるんですよ。それは駒場寮でつくづく身をもって感じたことですね。

あのとき駒場寮に2年ちょっと住んで、本当に良かったと思っています。

 

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