希望しなかった人事異動が人生の転機に マルチ書籍編集者・柳瀬博一さん

(撮影・斎藤大輔)

30年間勤務した出版社を退社して、2018年春に東京工業大学リベラルアーツ研究教育院の教授に転身した柳瀬博一さん。ヤマト運輸元会長・小倉昌男さんの『経営学』、矢沢永吉さんの『アー・ユー・ハッピー?』、養老孟司さんの『デジタル昆虫図鑑』など数々のヒット作を世に送り出した編集者として知られる一方、会社員時代からTBSラジオ「文化系トークラジオLife」のパーソナリティーも担当。インターネット番組などにも出演し、活躍の幅を広げています。

そんな柳瀬さん、意外にも社会人生活のスタートは順風満帆ではなかったといいます。

婿養子になりたかった新卒時代

――40代後半から50代半ばのビジネスパーソンのインタビュー集『決断 会社辞めるか辞めないか』(成毛眞著 中央公新書ラクレ)を読みました。新卒時は特にやりたいことはなく、婿養子に就職希望だったとありましたが、それは本当なのでしょうか?

柳瀬:本当です。放っておいたらずっとぐーたらしていたいタイプですね。最近の大学生や若いベンチャーの人たちはよく勉強していますよね。本当に優秀だし、自分の若い頃なんて幼稚園児みたいだったな、と思います。

―― 最初は日経BP社に入社されています。本は好きだったのでしょうか?

柳瀬:実は積極的なメディア志望ではなく、たまたま受かったので入れていただいただけなのですが、本は好きでしたね。母方の祖父が下駄卸業を営む傍ら、趣味で近世の日本美術書などを集めていました。夏休みに祖父の家に行くと数万冊の蔵書を誇る書庫があってかび臭い本が並んでいて。秘密の部屋のような雰囲気が好きでした。母親も本が好きだったので、小さな頃から本をふんだんに与えられていたこともありますね。

―― では本に囲まれて生活したかった?

柳瀬: うーん、ちょっと違います。いわゆるブックマニアじゃないんです。本も好きですが、それ以上に自然が大好きで、小網代の森に学生時代から通っていますし、世界中の海に潜りたくてダイビングのサークルに所属していました。今も毎年夏は御蔵島に行って野生のイルカと泳いでいます。

――幅広い興味をお持ちなので、あらゆるジャンルの本を編めるという印象があります。

柳瀬:そうなのかもしれないですね。ちなみに、僕は自分が「プロ編集者」であったことは一度もないと思っています。

――でも、たくさん売れる本を作っていらっしゃいますが?

柳瀬:それは結果論でしかないです。失敗もものすごくたくさんしていますし。もともとメディア志望でもなかったし、最初に配属された日経ビジネスでも大した記事が書けなかったので、部署を転々として、最後は開発部というところにいました。

書籍編集部への異動が転機に

(撮影・斎藤大輔)

――書籍の編集者になったきっかけは何だったのですか?

柳瀬:決してなりたくてなったのではなくて、会社に書籍編集部が立ち上がった時にたまたま呼ばれました。32歳の時です。入社後の鳴かず飛ばずの8年間は、ただひたすら本、雑誌、音楽、映画といったメディアコンテンツを純粋に消費者として楽しんでいました。映画は年間200本ぐらい見ていたかな。会社からも特に期待された存在でもありませんでした。

――何となく書籍編集者になってしまった、と。

柳瀬:最初に配属された『日経ビジネス』は書店流通をあえてせず、直接読者に本を届ける直販形式をとっていました。日経BP社の専門誌はいずれも同じ販売方式をとっていたのです。90年代半ばになってインターネットが登場した時代の流れを受け、市販雑誌として数々のパソコン雑誌、インターネット雑誌を矢継ぎ早に創刊したんです。『日経エンタテインメント!』や『日経ヘルス』も同時期にできました。

書店流通の道が開けたために、書籍部門の出版局が急きょ立ち上がり、開発部にいた僕もそこに混ぜられたわけです。ただし、市販の書籍を編集するのに長けた人はほとんどいませんでした。なにせ、それまでほとんど市販書籍をつくったことのない会社でしたから。

もちろん上司はいましたが、みんな僕同様、事実上の素人でした。でも後から振り返ってみるとそれが良かったのだと思います。ゼロ→1を学ぶいい機会になりました。

――最初はどのようにして書籍を作ったのでしょうか?

柳瀬:何しろ本を作ったことがなかったので、最初は『日経ビジネス』の記事をまとめて本にしました。『軽薄短小の時代』『会社の寿命~盛者必衰の理』『良い会社~長寿企業の条件』のように、切れ味のいい特集を日経の出版局が書籍化してベストセラーになったケースが80年代には結構あったんです。あのやり方を真似しようかと(笑)。

――なるほど。

柳瀬:それで「一番受けている『日経ビジネス』の特集、何かある?」と後輩に聞いたら「『あなたの仕事がなくなる』っていう、課長職がいらなくなるよ、という特集、読まれましたね」と教えてもらって。そこで、バックナンバーから似たような記事を見繕ってもらって本にしました。1カ月半くらいで書籍に編集したら、八重洲ブックセンターのビジネス書部門で1位になって3万部くらい売れたんです。

――すごいですね。

柳瀬:典型的なビギナーズラックだったんですが、そこで、はっと気がつきました。この特集を作ったのは日経ビジネス編集部で、僕は何もしていない。でも、『日経ビジネス』は市販ではなく直販だから、手にとって読んだことのない読者がこの世にたくさんいる。ならば、雑誌記事から書籍というかたちに編集し直し、新しい読者にプレゼンテーションすれば、同じ記事が別の価値を持つんじゃないかと。

――1回目でコツがつかめたのですね。

柳瀬:というか、たまたま当たってしまったということですよね(笑)。今の話は、後から考えた話です、ごめんなさい。実際は、あれ、雑誌とおんなじことを載せても、本にするだけで売れることってあるんだ、というくらいのことしか気づきませんでした。

ただ、1回やってみたら書籍の編集って、面白いなと思って、すぐに2回目も同じ手法で作りました。今度はゲラの段階で日経ビジネスの最新の記事を入手して書籍化して、雑誌とほぼ同時に発売しました。実質の編集期間が2週間でできた『なぜこの会社が強い』は紀伊國屋書店でベスト5入りしました。『日経ビジネス』の記事の書籍化が軌道に乗ったので、社内の賞もいただきました。

(撮影・斎藤大輔)

――快進撃です。

柳瀬:実際は何もしていないわけですよね。横のものを縦にしただけで。「何だ、書籍編集ちょろいな」とナメていました。本当はちょろくないということが後からすぐにわかるのですが…。

自分の知っていることはつまらない

――本が好きで興味の範囲が広いことが、いちばん生かされる職業に出会えたのでしょうか?

柳瀬:僕の場合、たまたま書籍編集者に配属されたことがきっかけで、後から自分が本好きだったことを思い出したんです。なので、今まで興味を持ったことのないテーマの企画を積極的に手がけることにしました。

あまりに自分が好きなものだと思い入れが強すぎる場合があるかもしれないし、かえって客観的に著者のよさを伝えられないかもしれない。そこで、企画も原稿も積極的に人から紹介されたもの、持ち込みのものに向き合うようにしました。

――そして、それは進路の選択でも同じである、と。

柳瀬:そうですね。例えば野球選手のイチローのような天才は、おそらく小学生の時から野球選手を目指し、そしてトップに立ったのだと思います。でも、「野球選手になりたい!」と思ってものすごく努力して高校野球で活躍して甲子園に行ってさらにドラフトで指名されてプロになって、一軍に残って一流の成績を残した人となると、数十万人数百万人の野球少年の中のほんの数十人、イチロークラスになるとほんの数人、という確率になります。

――確かに。

柳瀬:プロ野球選手の話は、まあちょっと極端なんですが、自分がなりたい道を選んで、実際になりたい何かになる、というのは、あんがい難しいし、うまくいかないことのほうが多いと思うんです。つまり、才能があって運があるほんの一握りの人を除く大半の人にとって、「自分で自分の道を選ぶ」というのは、シビアなことを言っちゃうと思い通りにならないことのほうが多いんじゃないでしょうか。

選べない環境を楽しんでいた幼少期

(撮影・斎藤大輔)

――そのことに気がついたのはいつだったのでしょうか?

柳瀬:振り返ってみると転校生だったことが大きいと思っています。父が銀行員だったので2年か3年ごとに転勤があって、幼稚園は3回、小学校は4回転校しています。1歳の時に生まれた浜松から横浜に行って幼稚園に進み、東京・高輪→茅ヶ崎→名古屋と移り住みました。小学校5年生の終わりに浜松に戻って、大学入学で上京しました。転校生って田舎者でも都会の人間でもない。転校生というジャンルの人間です。

――だから今、様々なジャンルの仕事をしていても転校生の感覚でスッと入れるのですね。

柳瀬:そもそも、転校生は自分で進路を選べません。100%、親の仕事の都合ですから。しかも銀行の転勤は異動のわずか1週間前に辞令が下るので、親父が「来週名古屋に転勤だ」と言った後の数日間で、専業主婦の母親が全部荷物をダンボールに詰め、余分なものはどんどん断捨離して、あっという間に次の土地に旅立つ。1週間前なのでたいした挨拶もできずにクラスメートに別れを告げる。

――少し寂しい経験をされたのですね。

柳瀬:と、よく言われるのですが、実は寂しいと思ったことが一度もなかった。転校が決まると、「いったいどんなところだろう」と地図を広げたりして。70年代の小学生は情報なんかないですから、別の土地は外国みたいなものです。東京の高輪から茅ヶ崎へ転校する時も、「茅ヶ崎」をどう読むのかわからなかった。なにせサザンオールスターズがデビューする前でしたから(笑)。でも、それが面白かった。

運良くいじめられた経験もなかったので、自分のなかで転校はある意味でプラスの体験だったんです。そして、これもあとから考えれば、なんですけれど、転校を繰り返すことで、受け身の人生を楽しむという姿勢ができたのかもしれない。自分が選べることは自分が知っていることで、そしてそれは案外つまらないことで、自分が選べないことは自分が知らない何かに出会える面白いこと、と。

――なるほど。

柳瀬:面倒くさがりで過去を振り返らない性格もよかったのかもしれません。次のところにたまたま送り込まれたら、さっさと面白そうだな、とスッと入っていける。出版社から大学へ転職したのも、ある意味で転校生的だったかもしれません。

2012年から東工大の教授をされている池上彰さんの『池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター篇』を「日経ビジネスオンライン」で連載し、書籍化したことがひとつのきっかけになりました。もしこの本をつくることがなければ、今の立場になることもなかったかもしれません。自分自身で積極的に大学で教鞭をとろうと思ったことは一度もなかったので。

(後編:書籍編集から大学教授へ、人生「無茶振りを楽しめ」 柳瀬博一さんに聞くに続く)

 

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