沖縄特飲街「オフリミッツ」と売春・下~沖縄・東京二拠点日記(番外)

(Photo by Getty Images)

1952年3月、米軍政府は中部のいくつかの地域にオフリミッツを発令する。米軍兵士への性病罹患が減らず、市町村の性病対策に温度差があるという理由からだった。

【前編】沖縄特飲街「オフリミッツ」と売春・上~沖縄・東京二拠点日記(番外)

沖縄の行政側は保健所にさらなる検診の徹底を指示した。また「一部」の売買春の店のせいで地域一帯がオフリミッツになってはたまらないと、八重島のような街をさらにつくるべきだという「隔離論」や、遊廓の復活をのぞむ声も上がってきた。沖縄最大の遊廓だった那覇の辻の復活もそういった背景があったのだろう。

しかし、米軍は建前としては売買春を公認しないため、取り締まりや検診を促進させていくより手はなかった。米側は性病対策をさらに徹底しなければ永久的なオフリミッツもありえると臭わせたため、警察はオフリミッツ地域から余所の地域へと移動をした娼婦たちの取り締まりにも力を入れるようになるが、それも限界があり、オフリミッツが性病封じ込めの手段として効果があるのかどうかを疑問視する声も出てきた。

しかしオフリミッツが性病対策に実効性がなくとも、対象地域で米兵相手に商売をする人々に経済的打撃を与えることだけは確実だったから、性病検査などを徹底的に「管理」された街での売春女性や経営者にしてみれば、私娼や街娼のせいで自分たちまで影響をこうむることになるのだから、むしろそうした恨みつらみを生むことになった。

この中部オフリミッツは1週間ほどで解除されたが、指定された地域の警察や飲食店経営者らはさらなる徹底した衛生対策や性病予防を約束させられる。警察が散発的取り締まりをおこなうだけではどうにもならなかったため、市町村と警察は「集団検梅制度」を導入することなどを決めた。

追い詰められた売春街の女性たち

集団検梅をやってみたところ、たとえば那覇市の小禄特飲街で性病罹患率が高いことがわかり、1952年5月に那覇市のペリー区と小禄でオフリミッツが発令された。これに対しては、検査を受けた風俗業関係の女性に検梅済カードをもたせることや、私娼を街から締め出すことなどを決めて1か月ほどでオフリミッツは解禁となった。しかし、翌月には今度は那覇の栄町や安里地区(真和志村)でオフリミッツが同じような理由で発令された。

こうしたオフリミッツの連発が、真綿で首をしめるように売買春の町を追い詰めていく。売春女性たちも、オフリミッツの度にその地域や町から逃げるように余所へ移動したり、私娼へと「転職」するなどした。

1952年7月には米国極東軍司令官大将より、琉球駐屯軍司令官に対して売淫取り締まりや性病防止を徹底的におこなうよう指令が送られてくるほどだった。米軍トップレベルからの指令である。その「性病防あつ及び売淫取締りに関する指令」は駐留米軍に対して相当の圧力となり、軍民協力して取り締まりや性病予防を強化せねば場合によっては那覇市への軍の立ち入りを禁止するかもしれないという脅しめいた言葉まで飛び出すほどだった。

もしそうなれば那覇だけでなく沖縄にとって一大事である。警察はただちに那覇市小禄で一斉「密淫売狩り」をおこなうなどした。18歳から38歳まで15名を検挙すると、宮古出身者が多かったという。さらに那覇市が独自に「娼婦名簿」なるものの作成に取り組んだが、どうやって見分けをつけるのかなど順調に運ぶはずもなく、さらに人権問題であるとの声もあがり、名簿づくり運動は頓挫していく。

こうした場当たり的かつ対処療法的なやり方はけっきょく功を奏さず、米軍政府は那覇市内の個別の飲食店へのオフリミッツの発令を頻発していくようになっていくのである。

占領米軍のダブルスタンダードによる混乱

1952年8月にかけて個別オフリミッツは中部の店にもひろがっていく。「沖縄タイムス(1952年8月7日)」には、「軍当局は三日、左の地域にある沖縄人飲食店など計七三軒をオフリミッツにする旨発表シタ。ニューコザ(三一)、ニュー我如古(六)、宜野湾大謝名(十)、同村前原区(十九)、謝刈(七)、(PIO発表)」とある。

これによって、やはり打撃を受けたのが八重島だった。次々にオフリミッツの板札が店先に貼られ、開店休業状態に追い込まれていった。売春をしていた女性たちは泡瀬の海岸などにあらわれ商売をするようになり、それを警察が取り締まるといういたちごっこのような様相と化した。

同時に衛生・保健関係の行政担当者が米軍の担当官と交渉を持ち、より衛生対策を強化をするからオフリミッツを外してほしいと陳情する。当時の沖縄はそんなオフリミッツ→取り締まりや検査の強化→街や店の衛生の徹底→性病検査で罹患者多数が判明→オフリミッツ、というような循環ができあがっていた。

この頃、沖縄の民政府は「性病取締法案」をつくり、首席権限で性病の疑いのある者に強制的に検診を受けさせることができたり、性病にかかっている者が淫売したときは2年以下の懲役、斡旋者が性病にかかっていることを知りながら勧誘や場所の提供をした場合は2万円の罰金にすることなどが盛り込まれた。それは性病に伝染した売春女性をターゲットにした瀬戸際作戦のような法案だった。しかし立法化されることはなかった。

また民政府は「保健所法」を施行し(1952年8月)、看護婦が性病罹患者の家を訪問して治療を受けさせることにしたが、保健所の仕事は多岐にわたっているため、とても手が回らずこれも特効薬とはならなかった。
個別(店)オフリミッツは八重島に決定的な大打撃を与えることになった。八重島から数百名の売春女性たちが次々とセンター通りに移動したという。八重島とセンター通りは距離にすれば1~2キロだが、この大移動により八重島は一気に廃れていく。

さらに1953年3月には、米兵士・軍属の全住民区域への夜間オフリミッツが発動された。首席をはじめ、各市町村長らはすぐに直談判に訪れ、これでは全琉球が苦境に立たされてしまうと強く迫ったが、オフリミッツの理由があきらかにされなかったため、解除の引き換えにするカードを用意しようがなかった。

やがて、理由が判明する。米兵相手の売春が公然とおこなわれており、米軍政府はこの実態を認められないという、とってつけたようなものだった。そのような場所がなくなればオフリミッツを解除する。そう米軍政府は条件を出した。ここでも米軍政府の片手で握手をしながら、片方の手で殴りつけるようなダブルスタンダードぶりが如実にあらわれている。

夜間全琉オフリミッツが1か月も続いたころ、これは衛生面の問題だけではなく、政治的問題ではないかという声が沖縄の人々の間から上がりはじめる。反米的発言をする野党政党がいるから米軍側が夜間の出歩きを危険視したのではないかという意見も飛び出してきたのだ。

のちに、この全琉オフリミッツの理由は米軍内の軍規粛正が目的だったといわれたが、米軍側から提案がなされたのは、驚いたことに沖縄人専用の売買春区域をつくれば、その場所以外はオフリミッツを解除するということだった。つまり米兵立ち入り禁止の「赤線地帯」をつくれということだった。けっきょくこの協定を取り交わしてオフリミッツは解除され、コザでは、嘉真原区や室川区が住民専用「赤線地帯」と指定された。

嘉真原区は、胡屋と胡屋十字路の中間辺りから東の方に入ったところ。ここは純農民と馬車引きの住む小さな部落だ。然も、赤線地帯となったところは、部落よりもはるかに大きい。どう見ても今までは売春行為といったものとは殆ど無関係だったとしか思われない所だ。その指定について同村助役は「部落の納得を得てから軍係官立ち会いの上で決めた。軍係官は、もう部落がどしどし大きくなるならば、畠の方向にのばしなさいと言うのでOKになった」と述べていた。ところが「赤線地帯」となったのですネと、そこの農夫さんに聞くと、「どうしてあんなのを立てるんですか、私には何のことだか分かりません」と狐につつまれたといった返事であった。部落では、赤線地帯となっても何の変化も起こらないだろうというのが承諾した前提条件となっているようだが、果たしてそんなところなのか。売春行為をする女達がここに移されるというのが「赤線地帯」の目的のようだが、これについて部落民は余り何も考えていないようであった。(『沖縄タイムス』1953年6月3日付。原文ママ)

繰り返すが、米軍政府は布告等では米軍兵士や軍属との売買春行為を禁止していた。しかし半ば公然化していた米兵の買春を止めることはできず、性病対策を強化する他はなかった。今度は、沖縄人同士の売買春地域を限定して、そこには米軍は入れないようにし、その他の米兵相手の商売────あくまで飲食業等────が成立するようにはかったものだが、やはり効果をなさなかった。米兵相手に売春をしたほうが儲かるから、住民専用売春地域から売春女性の移動が相次ぎ、米兵はそれまでどおり女性を買うのだった。沖縄は占領米軍のダブルスタンダード施策が生み出した混乱状態に陥っていたのである。

 

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