「青春」は夢中になることでしか得られない~青春発墓場行き(第21回)

(イラスト・戸梶 文)

前回 書いたような経緯があって、僕の第二のライター生活が始まろうとしていた(まだ始まってもいないけど)。その前に、ちょっと原点に振り返ってみようと思う。

この連載のタイトルは『青春発墓場行き』だ。もともとは、青春がなかったという僕のルサンチマンをエピソードを交えて語ろうと思った連載だ。しかし、連載を進めていくに連れて、僕にもちゃんと青春があったんだなと気づくことが多かった。それには、青春の定義が自分なりに必要になってくると思うのだけど、僕が定義するとしたら、「何かに夢中になること」じゃないのかなと思う。それは、恋愛でも受験でも、仕事でも何でもいいのだけれど。あまたある、世の中の青春の定義がたくさんあるなかで恐縮だけれど。

僕は、しらけ世代じゃないけれど、何にも成し遂げたことがない思春期を過ごしていた。そういう内からの熱い思いも湧き出てこなかった。ただただ、日常をぼーっと過ごしているだけだった。

そういう状態から抜け出した初めての経験は、大学受験だったのかもしれない。僕は、現役では、ひとつの大学にも引っかからず、結局、予備校に通うことになったのだけど、そのときは、本当にがむしゃらになって勉強した。毎日、授業が終わると自習室に8時間は、籠もっていた。成績が上がると得も言えぬ達成感が僕に去来してきた。今、振り返ってみると、あのとき僕は、「青春」を生きていたんだなと思う。

そして、あれだけ「青春」を夢見ていた大学に入ってからは、また虚無感とともに過ごすことになった。キャンパスライフを満喫し、彼女と構内を一緒に闊歩するなんてことはなかった。そのときの挫折感ったらなかった。そんなものが「青春」なら、そんなものドブに捨ててやる。しかし、それは、そもそも「青春」というものを僕が履き違えていたからではないだろうか。

安っぽいキャンパスライフだけが「青春」ではない

僕は、その状態を引きずったまま、社会に出て、一般企業に就職するのだけど、相変わらず、身が入らない日々が続いた。僕がやりたいことは、こういうことではないのでは? という思いが離れず、ご多分にもれず、そういう曖昧な状態で仕事をしているとミスを連発するものである。僕は、会社の信用を得ることなく、1年ちょっとで辞めることになった。

その後、ひょんなことから週刊誌の記者になって、また、「何かに夢中になること」の快感を覚えた。そのとき、僕は、まさに2度目の「青春」のまっただ中にいた。

結局、「何かに夢中になること」でしか、「青春」を得ることはできない。駆け抜けるような時間とともに、忘我の域に達するまで、何かをやり遂げたとき、それは、のちに振り返って、「あのときは青春だったなあ」と言えるのではないだろうか。決して、安っぽいキャンパスライフや、若気の至りだけが「青春」ではないと思うのだ。

そういう意味で、僕は、3度目の「青春」を迎えようとしていた。それは、ちょうど30代の10年間とぴったり重なっていた。僕の外面は、もうおっさんだったけど、中身は「青春」そのものだった。それをこれから振り返っていきたいと思う。

僕は、何もダラダラ過ごすことを否定しているのではない。僕自身、ほとんどそういう時期を過ごしてきたのだから。それによって得たことも多い。人間の弱さや、自分を肯定できない人々の気持ちも当事者になって初めて理解できる。人間はそんな単純なものじゃない。

それは、突然カチッとスイッチが入ったように、ふいにやってくる。だるい毎日をすごしている僕のような人にだって、それは、突然やってくるかもしれない。それは、誰にでもやってくるものだと、僕は思っている。「何かに夢中になること」は麻薬のようなものだ。一度経験すると、また、経験したいと思ってしまう。それがある限り、人間は生きるという意思を持続することができる。それが輝かしい日々だろうと、そうでなかろうと、僕は、それを「青春」と呼ぶのだと思っている。

 

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