もしも隣人から塩を借りられたら、少しだけ生きやすい社会になると思った

活動するウガンダ北東部にて、大岩の上に寝転ぶ筆者

もしもあなたが夕飯の支度をしているとして。塩を切らしていることに気づいたらどうするだろうか?

料理の手を止めて、近くのコンビニまで走って買いに行く。

テレビを見ている子どもにスーパーまでお遣いを頼む。

塩を使うのはあきらめて、別のもので代用する。

そんな答えが思い浮かんだかもしれない。

でも、こんなことを考えた人はいないだろうか?

隣の家の人に分けてもらう。

僕にはこれが難しい。アパート暮らしの僕は、隣人の名前すら知らないからだ。

僕と同じ状況にある人は、今の日本には意外と多いのではないだろうか。

外国人が珍しい、ウガンダの田舎町で

国際協力を仕事にする僕は、この記事を書いている現在、ウガンダ共和国のとある田舎に滞在している。

主な活動は、生理が原因で学校に通えない女の子たちに布ナプキンの製作指導をすること。詳細はここでは省かせてもらうが、先日、活動内容について詳しく書いた「生理をよく知らないフリーランスの日本人男、アフリカで布ナプキンを作る」は大きな反響があったので、気になる方はあとで読んでみてほしい。

ウガンダ北東部の小学校にて布ナプキン製作の指導に携わる筆者

僕が今いる町は、ウガンダの中でもかなり田舎のほうにあり、外国人はほとんどいない。たまに道路整備に携わる中国人の建設作業員を見かけるくらいだ。物珍しさからか、道を歩けば子どもたちから「ムズング!」(白人という意味)と声を掛けられる。

生まれて間もない赤ちゃんは、肌の白い人間(僕のことだ)を初めて目にし、号泣してしまうこともある。

外国人が珍しい、そんな田舎の小さな町だが、首都のカンパラよりはずっと治安がいい。

理由を地元の人間に聞くと、人々の間に“つながり”があるからだという。町の中ではその多くがお互いの顔や名前、そして家族構成を知っている。仮に一度でも犯罪を起こしてしまえば本人だけではなく、その家族までもが生きづらくなってしまう。

また、“つながり”があるからこそ、普段から互いに助け合い生活をしている。隣人とお金を出し合って食べ物を買い、それをみんなで一緒に食べることもある。

よその家族の子どもの面倒を見たり、時には強く叱ったりもする。生まれたばかりの赤ちゃんを、複数のお母さんが交代しながら子守する、そんな光景も目にしてきた。

「隣人の名前も知らない」と話して驚かれ

そんな話をウガンダ人の友達から聞いていて、ふと日本での自分の生活を思い返してみた。

僕は、隣人とどれだけ会話を交わしてきただろうか。

日本ではアパート住まいということもあり、隣人の名前を僕は知らない。日本とアフリカを行き来するフリーランスという不規則な働き方のせいもあってか、顔を合わせたこともほとんどないと思う。

実家で生活していた時でさえ、大学生になってから隣人と口を交わしたことはほとんどないと思う。何となく気恥ずかしいというか、下手に干渉されたくないというか、そんなことが理由だった。

ウガンダ北東部の村の様子

東京のような都市部に暮らしている人、特にアパートのような集合住宅に住んでいる若い人なら、隣人の顔や名前を知らない人は結構多いのではないだろうか。

そんな話をウガンダの友人にしてみたら、とんでもなく驚かれた。

「じゃあ、もしカンタが料理をしていて塩が切れたらどうするの?誰からも借りられないじゃないか!」

ネットで人とつながれる。でも…

今の時代、都心に暮らしていれば徒歩圏内にコンビニくらいある。24時間営業もしている。

塩くらい、一人でコンビニに行って買えば、それで解決する問題だ。10分もかからない。夕方の忙しい時間にドアをノックされ「塩を分けてほしい」と頼まれたら、驚き、怖がる人もいるだろう。

でも、日本とウガンダ、その両方で生活をしている僕は、こうも考えてしまう。もしも日本人みんなが隣人から塩を借りられる、そんな関係を築けている方が、生きやすいんじゃないだろうか。

もちろん他人に干渉されることなく、一人でのんびりと生きたい人もいるだろう。「日本の田舎にはまだそういった生活があるけど、それはそれで大変なもんだよ」。この記事を書く前、Twitterでそんな声も寄せられた。

それに今の世の中にはインターネットがあるから、無理に隣人との関係を築かなくても、人との“つながり”を作ることはできる。

ただ、一つ言えることがあるとすれば、かつての日本にも、ウガンダで僕が見たような“つながり”は間違いなく存在していた。戦前や戦後間もない頃を描いた映画なんかを見ていると、僕はそういった部分に人の温もりを感じてしまう。「羨ましいな」と思ってしまうこともある。

ここ数十年の経済成長と都市化、核家族化で、その“つながり”は希薄なものになってしまった。いつしか、他人に無関心な世の中になってしまったのではないだろうか。

もう少し、他人に関心を持ってもいい

井戸で水を汲むウガンダの子どもたち

以前僕は自分のブログで、こんなことを書いている。

”日本では「自立=周りとの関係を切り離し、独り立ちすること」と考えられているが、僕は「困った時に頼れる依存先を持ちながらも、自分らしく生きること」が真の自立だと思う。 「困った時は周りに頼っていい。それも自立なんだよ」と言える人が増えるだけで、今よりも生きやすい社会になるはずだ。(「自立とは”困った時に頼れる依存先を持ちながら自分らしく生きること”」より)

アパートやマンションの一室で住民が餓死していたことに、周囲がしばらく気づかなかった。そんなニュースが報じられるたびに胸が痛む。「行政は対応できなかったのか」そんな思いにもとらわれる。

過干渉はよくない。希薄すぎる関係もよくない。その中間を見極めるのはとても難しい。

でも、もう少しだけ「他人」に関心を持って生きられたら、今よりも生きやすい社会になるんじゃないか。

ウガンダで目にした人と人との“つながり”が、僕にそう思わせてくれた。

 

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