学生時代は「カルチャーオタク」でした・・・ テレビ東京・佐久間宣行さん 前編

(撮影・斎藤大輔)

テレビ東京の大人気番組『ゴッドタン』の演出・プロデューサーとして知られ、4月からはパーソナリティーとしてラジオ番組に出演、リスナー感謝イベントには1万人もの応募があった同局の佐久間宣行さん。幅広い分野で活躍を続ける「日本で一番人気のある会社員」ですが、意外にも学生時代は「もの作り」には向いていないと思っていたといいます。

【連載】会社を出てひとりで働く

カルチャーオタクだった中高時代

――人気番組『ゴッドタン』『ウレロ』シリーズなどを拝見しましたが、笑いにストーリーがあると感じました。

佐久間:マンガ、映画、演劇などをたくさん見てきたということもあり、笑いの中のストーリー性を意識しています。くだらなさの中に面白み、おかしみを入れたいんですね。笑っちゃうんだけど泣いちゃう、悲惨だけど崇高さがある、など様々な感情を同時に内包できるものが好きです。

それから、一つの作品で複数のレイヤーを感じさせるような作品作りをしたいと思っていますね。例えば『ゴッドタン』の「マジ歌選手権」であれば、芸人が作るくだらなさもありつつ、音楽的には最先端を行っているとか。

お笑いの部分でも、音楽的な部分でも、楽しめるものが作りたいです。表層的な面白さではなく、いくつかの面白みがあるもの作りを目指しています。

――中学生の頃、ご自分でマンガを描いていたそうですね。

佐久間:中学生の時はマンガにはまっていましたね。中1の時に士郎正宗さんみたいなカッコいい絵を描きたいと思ってマンガを描いて、妹に見せてバカにされていました(笑)。福島県のいわき市に住んでいたのですが、30年前の東京とのカルチャーの格差はかなりのもの。映画はレンタルビデオ屋があるぐらいで、ミニシアター系の作品は見ることができなくて。そういう中で、比較的カルチャーの格差が少ないのはマンガだったんですね。

音楽も、当時は今のように配信でいつでも聴きたい音楽が聴けるわけではありませんでした。そういう理由もあって、中高時代はマンガと深夜ラジオにはまっていましたね。

――カルチャー好きになったきっかけはあるのでしょうか?

佐久間:僕は体が強かったのですが、妹は体が弱くて、母が妹をよく病院に送っていたので、家に帰ってきた時はひとりだったんですね。ひとりの時間が長く、マンガ、本などを読んで時間を過ごしていました。

――学校でも有名なカルチャー好きだったのでしょうか?

佐久間:小学生の時は剣道、中学生の時はバスケットボールと、基本的には体育会系でした。中学時代は既にカルチャーオタクだったのですが、情報を共有できる仲間はいなかったので「本当の自分」は家族以外には誰にも明かしていませんでした。

ところが、男子校の高校に入って状況が一変しました。マンガ好きもいるし、アイドルオタクもいるという環境で、自分も映画、演劇などのカルチャーオタクの道を突き進みました。女子がいなかったせいか「モテよう」という気持ちが強制的に奪われたことも大きかったです。

――福島にいて、どのようにしてカルチャーを吸収していたのでしょうか。

佐久間:映画はレンタルビデオ屋で借りて見て、演劇は当時始まったばかりのWOWOWやNHK-BSでやっていた演劇中継を録画し、友達と貸し合っていました。実際に観に行くチャンスはほとんどありませんでしたね。その時に初めて三谷幸喜さん率いる東京サンシャインボーイズや、夢の遊眠社だった頃の野田秀樹さんの舞台を観ました。

演劇、映画を観るため、大学は東京へ

(撮影・斎藤大輔)

――その後、東京の大学に進学していますが、きっかけは?

佐久間:高校時代からはお金を貯めて、東京に小劇場の芝居などを観に行くようになりましたが、頻繁には行けませんでした。それが悔しくて、小劇場に気軽に行ける東京の大学に行きたい、と思うようになったんですね。東京から近い国立大学も見学しましたが、やはり遠いと感じて。

そこで、両親に「東京の私立に行かせて欲しい」と頼んで、奨学金を取って上京しました。東京へは芝居や映画を観るために出て来たという感じです。

――上京してからをお聞かせください。

佐久間:地元にいた頃には我慢していたミニシアターの映画やライブ、小劇場の芝居をとことん観たいと思っていました。なので、ライブハウスや劇場のある下北沢に近い小田急線沿線の生田駅にある学生寮を選びました。下北沢にはよく行っていましたね。

最初の1年は東京にいることに我慢できたのですが、2年目からは我慢できなくなって、短期のアルバイトをしては、ほぼ毎日フジロックなど地方のエンタメイベントにも通うようになって。2年生の時は2単位しか取っていませんでした(笑)。

――進路はどのようにして決めたのでしょうか?

佐久間:僕は、フットワークの軽いカルチャーオタクで、フジロックフェスティバル、ロック・イン・ジャパン・フェスティバル、WIREの第1回は全て行っています。ただ、「ものを作る」というクリエイタータイプではないと思っていました。

敏腕プロデューサーの言葉を受け、制作職で応募

――では、なぜテレビ局に入社したのでしょうか?

佐久間:遊び過ぎて留年したこともあり、大学3年生からは、その頃はまだ講師だった早稲田大学の横山将義先生(教授)の大教室の授業で、マクロ経済学やマーケティングを学び直しました。それで横山先生と仲良くなって、色々と相談していたんですね。

ある日、先生に「将来どうするの?」と聞かれました。何しろ毎日カルチャー三昧で、そのことしか考えていなかったので「カルチャーを扱う中小の出版社に行けたらいいな」と言ったんです。そうしたら「真面目に勉強しているのだから、可能性を広げていわゆる普通の会社も受けてみたら?」とおっしゃって下さって。

――そうだったんですね。

佐久間:先生の勧めもあって、テレビも含めたあらゆる業種の営業、マーケティング系の会社を受けたところ、総合商社、メーカーなどから内定を頂くことができました。あるメーカーさんには高評価を頂いて、内定順位が1位だったんですね。いつも面接が通るので、その時は「自分は営業、マーケティングの仕事が向いているんだな」と感じていました。

――確かにそう思いますね。

佐久間:テレビも制作職ではなく事業職で受けていたのですが、フジテレビの面接官で当時は『踊る大走査線』のプロデューサーだった亀山千広・元社長に「これほどカルチャーを見ている人はいないね。制作職に向いているから、そちらも受けた方がいいよ」と言われて。その段階で、制作職でエントリーできる会社はテレビ東京しか残っていなかったのですが、受験したら内定が出ました。

テレビ東京は何となく入ったという印象です。「君に来て欲しい」という感じではありませんでしたね。

――テレビ局以外の道は考えなかったのでしょうか?

佐久間:あらゆるカルチャーに接して分かったのが、世の中に天才はたくさんいるということでした。なので、カルチャーは天才が作っていくものなのだろうと思っていました。

ところが、面接で「今度、もっと君の話を聞きたいよ」と言われた時に、中学時代にマンガを描いて妹にバカにされ、大学時代にはシナリオを書いて友達に酷評された自分でも、作品の「ここが面白い」と人に語れることが、ひょっとしたらもの作りの上でストロングポイントになるのではないかと感じたんですね。

「ダメなら3年で転職」と決意し入社

(撮影・斎藤大輔)

佐久間:卒業後3年間は新卒の扱いで普通の会社も受けられるので、とにかく3年間は制作職で頑張ってみようと思いました。3年やってダメだったら、また転職活動してもいいかなと。自分にクリエイターの才能があるとは思えないけれど、やりたい気持ちを優先させてやってみようと決意しました。それがテレビ局に入ったきっかけですね。

――映画や演劇が好きならば、お笑い番組ではなくドラマを担当するのではないかと思うのですが。

佐久間:20年前のテレビ東京は、今ほどドラマ作りが盛んではなかったということもあって、ドラマ班に1年いたあと、バラエティー班に行きました。ドラマ作りがさかんな今、入社していたら違っていたかもしれませんね。

――なるほど。

佐久間:芽が出なかったら考え直そうと思っていましたが、ちょうど3年目で企画が通って、自分の番組を作ることができたんですね。そこで初めてテレビマンとしてやっていけるかも、と思いました。ずっとラジオを聴いていた憧れの伊集院光さん、オセロさん、オダギリジョーさんが出演してくださった『ナミダメ』という番組でした。それがターニングポイントでしたね。

その後『TVチャンピオン』のディレクターになり、企画を立てて番組制作をすることの楽しさを覚えました。そして、この道でもうちょっと頑張ってみようと思った時に「深夜番組で若手芸人のお笑い番組を作るから、総合演出をやってみないか」とお声が掛かって。それが『ゴッドタン』の始まりでした。

 

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