「もうひとりのU2」私が見たアントン・コービンの孤独な素顔(エンタメひとり旅)

U2

前回このコラムで紹介したU2のボノがその魅了に取りつかれたロサンゼルスの「ミリオンダラーホテル」。すべてのきっかけとなったのは、あるフォトグラファーとの撮影だった。そのフォトグラファーの名前は、アントン・コービン。あのホテルを撮影場所に選んだのは彼だった。彼は1982年から世界中のツアーにも帯同し、U2を撮影し続けている。

アントン・コービンが撮影したU2

「世界でもっとも影響力を持つ」と言われる写真家

ドキュメンタリーでアントンについて聞かれたU2のボノは「単なる写真家ではない。メンバーのひとりのように感じた。彼は外部にいながら、俺たちの一部なんだ」と語っている。「もうひとりのU2」、世界で最も影響力を持つとまで言われる写真家。ミュージックビデオ、コマーシャル、さらには映画を監督するなどマルチな才能を持つアーティスト。アントン・コービンとは一体どんな人物なのか? 私が出会った意外な素顔とは?

アントン・コービンの写真集

アントンの写真集には、デヴィッド・ボウイ、ビョーク、ニール・ヤング、「メタリカ」などのミュージシャン、クリント・イーストウッド、ジョディ・フォスター、デヴィッド・リンチ、マーティン・スコセッシ、ジョニー・デップ、ニコラス・ケイジ、メル・ギブソンなどの俳優と、錚々(そうそう)たるスターが登場する。そんな中でもU2との仕事が最も多く、大判の写真集を出版するほど。コラボレーションは多岐にわたる。写真集にはU2の家族も登場し、彼への信頼度や親密度がうかがえる。U2を世界的バンドに押し上げた名盤「ヨシュア・トゥリー」のあのジャケット写真もアントン・コービンの手によるもの。

アントン・コービンが手掛けたヨシュア・トゥリーのアルバム・ジャケット

私が彼と初めて会ったのは、2008年。場所は東京の青山。アントンが初監督した長編映画のPRのために開かれた写真展の会場。その日はオープニング・パーティーが開かれ、世界で活躍する日本の女優や有名人もいたが、参加者は少なかった。かなり貴重な集まりだった。

2008年来日時のアントン・コービン(撮影:喜久知重比呂)

シャンパングラス片手に現れた彼は、すごく大きくかった。身長は2メートル近い。猫背気味に手を差し出し握手してくれた。笑顔から優しい人柄が垣間見えたが、口数も少なくナイーブな性格がうかがい知れた。この日の主役なのに招待されてきたお客さんのようだった。私は、その日リュックに入れていたコンタックスT3というカメラを取り出した。アントンに「撮影してもいいか」と聞くと、「自由に撮っていいよ」と快くOKを出してくれた。このカメラを見たアントンがサインまでしてくれた。

筆者愛用のカメラ。左側がアントン・コービンのサイン

写真におさまるアントンの隣に飾られている作品は、大物バンド「ニュー・オーダー」の前身である「ジョイ・ディヴィジョン」のイアン・カーティス。若い頃、アントンは「ジョイ・ディヴィジョン」の音楽に衝撃を受け、彼らを撮るためにロンドンに渡った。写真家として世界に出るきっかけを作ったバンドである。バンドのヴォーカリスト、イアンは23歳という若さでこの世を去った。自殺だった。アントンは、イアンの波乱の人生を描いた映画『コントロール』(2007)を監督し、その宣伝のために来日していたのだ。

「イアン・カーティスですね?」と言うと、アントンが「仲間が死んじゃうのは悲しいね」とポツリと言ったことを思い出した。アントンがこれまでに撮影した多くのスターがこの世にいない。ニルヴァーナのカート・コバーン、フランク・シナトラ、ジョニー・キャッシュ、マイルス・デイヴィス、デヴィッド・ボウイ、ルー・リード、ウィリアム・S・バロウズ、アレン・ギンズバーグなど多くが旅立った。フリップ・シーモア・ホフマンは、アントンが監督した映画『誰よりも狙われた男』(2014)に主演し、映画の公開を待たずして、46歳で亡くなった。

アントンはオランダ・ロッテルダムの南の島で生まれ、11歳までを過ごす。父親はプロテスタントの教会の牧師だった。人の死という場面にもたびたび出会ってきたことだろう。あまりにも何もない島で、娯楽は音楽しかなかったという。

会話が途切れるのが怖くて、人が多いところが苦手だというアントン。その佇まいに感じた寂しさはなんだったのか? アントンは子供の頃、牧師の子供だったことでいじめに遭い、会話のない家庭に育ち、殻に閉じこもっていたという。アントンは「人生において音楽というのはとても大切なものなんだ。社会に関わりたいと思えるものなんだ」さらに「写真を撮ることでその感情が満たされる」と語る。英語がわからなくて歌詞は理解できなかったものの、とりあえず音楽を聴き続けたという。

子供の頃からロックが大好きで、22歳の時に初めて地元のバンドを撮影したのをきっかけに写真に目覚め、カメラマンとしての仕事を始める。本格的な仕事は、1977年音楽雑誌『NME』のエルビス・コステロの撮影だった。2年後には念願の「ジョイ・ディヴィジョン」と仕事をすることもでき、ロックバンドとの仕事も増えていき、ミュージックビデオも監督するようになる。

U2と仕事を開始したのは80年代に入ってから。ちなみにU2のファーストアルバム『BOY』のプロデューサーは「ジョイ・ディヴィジョン」を手がけたマーティン・ハネット。U2とアントンのコラボは、アルバムのジャケットに留まらず、ミュージックビデオなど多岐にわたっている。その関係は40年以上経った今も続いている。

アントン・コービンが手掛けたU2のアルバム・ジャケット

U2との関係がこんなに長く続いているのは、作品に対する考え方にあるようだ。「作品は自身の心を映し出す」「娯楽のためだけに撮らない。常に何かしらの意味を込めている」と語るアントン。一方U2のボノは「U2の音楽もアントンの写真も光を追い求めて、光を形にしている。ある時は社会の枠組みを表現しているんだ」と語っている。

アントンが手がけた991年のアルバム『アクトン・ベイビー』のアルバム・ジャケットとONEという曲のミュージックビデオ、ボノはこの二つをずっと残しておきたいと語るほど気にいっている。当時、新作の方向性をめぐって解散の危機まであったU2が、壁が崩壊し時代のうねりの真っ只中にあったベルリンでレコーディングしたアルバム。ONEのビデオには、女装したメンバーが登場し、ベルリンの街を男と女の絵が屋根に描かれた車が行き交う曖昧な世界を描いたミュージックビデオ。ひとつになった国で、分裂しかかったバンドをひとつにしたのはアントンだったのだろうか。

オランダの牧師の子として生まれた男と、カトリックとプロテスタントが対立するアイルランドで生まれた男。そのコラボが生み出す作品は、満たされない世界へのメッセージを発信し続ける。

日本で名盤「ヨシュア・トゥリー」を完全再現するライブを行うU2。ステージの巨大なスクリーンには、アントンがプロデュースした8K映像が映し出される。もしかすると、ステージの袖に「もうひとりのU2」の姿があるかもしれない。

 

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