「28歳の忘れ物を取りにいく」 51歳コマエンジェル荻野美和の孤独な挑戦

23年ぶりに自作の上演に臨む荻野美和さん

才能とは、誰にもできないことを軽々とやってのける能力――。そう思いがちですが、果たして本当にそうでしょうか。浅田彰が村上龍に贈った、こんな言葉があります。

「才能というのは、子供っぽい欲望を保ち続け、それを貫き通すためにはあらゆる妥協を排していかなるコストもリスクも引き受けてみせる意志だ」

東京・狛江市を拠点に活動する主婦パフォーマンス集団「コマエンジェル」が、本格的な演劇に挑みます。上演するのは「未沙 missa」。さびれた修道院に現れた戦場ジャーナリストをめぐり聖女の「人間としての本質」があぶり出されていくストーリー。「忘れ物を取りに行く」と語る代表の荻野美和さん(51歳)に、その理由を聞きました。

プロフィール
荻野美和(おぎのみわ)1968年、山梨県甲府市生まれ。小学生で児童劇団に所属し、高校の演劇部では自身の脚本で県の最優秀賞を受賞。玉川大学芸術学部卒。東京都狛江市を拠点とする主婦パフォーマンス集団「コマエンジェル」を率い、2017年には銀座・博品館劇場での上演を果たす。

言葉を扱うのに気が引けて「あえてセリフなしでやってきた」

ーー結成13年目を迎えたコマエンジェルのコミカルでド派手なダンスは、テレビや新聞に何度も取り上げられて地元以外にもファンがいます。

荻野:子どものクリスマス会のために近所のママ友と集まったのがきっかけで、私もまだ30代でした。当時はコマレンジャーというヒーローがいて、マスコットガールとして名前をつけたのですが、いまやコマエンジェルだけが残ってしまいました(笑)。

ーー週1回の稽古を何年も積み重ね、2017年には銀座・博品館劇場で公演もしました。このときは「普通の主婦」とうたわれていましたが、実はプロとして演劇をやっていたのですね。

荻野:1990年から10年間、演劇倫理委員会という劇団を主宰していました。小学生のときに親に頼んで児童劇団に入れてもらい、高校で賞をいただいて玉川大学の演劇学科(現・芸術学部パフォーミング・アーツ学科)に入りました。その後も母校の高校の指導をしていたんですが、演劇仲間と地元で芝居をやったのをきっかけに、東京で本格的に劇団を旗揚げしようという話になったんです。

コマエンジェルのメンバーには、当時の劇団メンバーや公演に出てくれた役者さん、現役で劇場に出ている人もいます。大学でパフォーマンスを学んだ若手も入りました。でもそれぞれの家庭を優先して活動する方針なので劇団と名乗るのはおこがましい気持ちもありました。あえてセリフなしの歌とダンスにしてきたのも、言葉を扱うのに気が引けたからというのもあります。

公演を決めたのは「その日、劇場が空いていたから」

青春を捧げた「劇団 演劇倫理委員会」の公演パンフレット

ーー今回の「未沙 missa」はダンスではなく完全なストレートプレイ(セリフのある芝居)ですが、初演はその劇団なんですね。

荻野:23年も前になりますが、1996年10月に東京・大塚の萬スタジオで上演しました。脚本と演出は私で、タイトルロールも今回と同じナオ(金澤奈生子)でした。失敗ではなかったんですが、どこかで後悔が残っていたんですね。この作品はもっといい作品になるはずだったという思いがあって。

私がもっと力をつけた後、いつか再演したいと思っていました。だからといって51歳にもなって「28歳の忘れ物を取りに行く」というのは自分でもおかしいと思うんですけど(笑)。私が妊娠して劇団が事実上活動終了となり、子育てをしながらコマエンジェルを始めたものの、ストレートプレイをする条件までは整っていなかったんです。

ーーそれを今回やろうと思った理由は。

荻野:コマエンジェルで若いころの芝居仲間などと一緒にやりながら、もしかしたらまたできるんじゃないかって思ってはいたんです。そんなとき、ふと劇場のホームページを見たら、この日がぽっかり空いていた(笑)。思わず予約をして押さえましたよ、誰にも相談せず。

ーー「未沙」には思い入れがあったんですか。

荻野:当時は新作を年に2本書いていましたが、毎回納得のいくものが書けるとは限りません。深く考える時間もなく次の劇場を押さえて稽古に入ることもありました。それでもたまに寝食を忘れて書けることがあって、それが「未沙」でした。遠藤周作先生の『私が・棄てた・女』はお読みになったことありますか?

ーー僕も大学生のころに読みました。ハンセン病と診断された女性が療養所の修道院に行く場面のある話ですね。

荻野:遠藤先生のその作品や『沈黙』などを読んで、私を一途に愛してくれた女性のことを思い出しました。それでその人の話を書こうと思ったんです。

「未沙」は幼いころ一緒に泣いてくれたおばさん

主役の2人も同年代の女性。かつての「芝居仲間」だ

ーーその女性はどんな人だったんでしょうか。

荻野:実家のお手伝いさんとして働いてくれていたおばさんです。父も母も教員だったので、半分は彼女に育てられました。母よりだいぶ年上で、学校で学んだこともなく字が書けませんでしたが、私の世話は本当に一生懸命にやってくれました。

朝の幼稚園バスのお見送りからお迎え、遊び相手まで。私が悲しくて泣いていると理由も聞かずに一緒に泣いてくれました。小学校低学年のころは、家に帰っておばさんにポッキーと魚肉ソーセージをもらうのが楽しみで。母には「もう買わないで」と叱られていましたが。

ーーお母様からしたら、間違った愛情は困ると感じたのでしょうね。

荻野:でも今なら分かりますよ、間違ってると言われても私の喜ぶ顔が見たい一心だったんだって。ただ私はお友達と遊ぶことを覚えたころから、おばさんをだんだん疎ましく感じ始めました。会話するときも目を合わせなかったり、返事もそこそこに遊びに出かけたり。それでもおばさんは私を心配して、いつも変わらず優しかった。

ーーおばさんは、いつまでいらしたんですか。

荻野:母が早期退職し、私が中学を卒業する年までです。毎日3キロの道のりを歩いて通ってくれたおばさんは最後の日に「美和ちゃん、元気でね、忘れんでね」と涙を浮かべていたのに、私は目も合わさずにありがとうも言えなかった。そのときの寂しそうなおばさんの背中は、今も忘れられません。

ーーやめてからも連絡は取っていたんですか。

荻野:高校生のころは電話をかけてきても、あまり出ませんでした。大学に入るころには愛情のありがたさも理解できるようになったんですが、25歳で結婚するときにはおばさんの消息がつかめなくて。3年後、ご主人を亡くして介護老人福祉施設にいることが分かったときには昏睡状態で、職員の方は「もう数日こんな状態なんですよ」と。

自分の脚本が生きた人間となる「寂しさ」がある

「自分が産んだ子どもたちが手を離れていくような」

ーーそれが10年ぶりの再会だったんですね。

荻野:やっと感謝できる年齢になったのにと、涙が溢れて仕方ありませんでした。でも何度も手を握りながら語りかけていると、おばさんがパッと目を開けたんです。それで「私結婚したんだよ。幸せに暮らしてるよ」「これまでありがとうね。会いに行けなくてごめんね」と伝えたら、黙って私の目を見て、それから数日後に亡くなりました。

ーー「未沙」を書いたのは、その後のことですね。

荻野:設定も人物像も違いますが、私を愛してくれたおばさんの生きた証を残したいと思ったんです。命の価値は、社会的地位でも学歴でも財力でも美しさでもない。もっと尊いものが存在すると分かるまでに、長い時間を費やしてしまいました。

私はクリスチャンではありませんが、遠藤先生のイエス像には深く共感しています。見返りがなくても愛を惜しまず与えてくれたおばさんは、私にとってそんな存在です。あのときと変わらず私のそばにいて、悲しいときや苦しいときに一緒に泣いてくれていると感じています。

ーーお稽古を拝見しましたが、お芝居が非常に緻密に組み立てられていることに驚きました。それから主演の2人はもちろんですが、コマエンジェルのコミカルな面を担ってきた人たちが脇役でいい味を出してます。

荻野:でもお稽古が終わった後、みんなの楽しそうな輪に入れないときは孤独ですよ。ダメ出しをする演出家は敵ですから。家に帰ってからも、ああいう言い方でよかったのかなとか、いつまでもひとり悶々としています。別にその人が憎いわけではなく、いい作品にしようと思ってやっているわけですし、彼らも分かってくれているとは思うんですが……。ただ、演出家憎しで反発した演者が団結すると、いい作品になることが意外と多いので(笑)。それは仕方のないことだと思っています。

それから、自分が書いたキャラクターが舞台で生きた人間となるときは、何とも言えない寂しさを感じますね。自分が産んだ子どもたちが自分の手を離れて大人になっていってしまうような……。どんな役でもスピンオフ作品の主役になれる人物として書いているつもりですから、そうなってもらわないと困るし、嬉しいことなんでしょうけど、本当は。

◆コマエンジェルシアター「未沙 missa」
さびれた修道院に現れた戦場ジャーナリストをめぐり、聖女の「人間としての本質」があぶり出されていく。障がいを持つシスター志願生・未沙を通して「愛」「生」そして人間「イエス」を探る物語。
※3月7、8日に吉祥寺シアターで上演予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため延期となりました。
問い合わせ:コマエンジェルホームページ

 

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